札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

書籍販売 聖書1日1章 「日毎のマナ」

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文庫本は大きさ比較用です(B5版・780ページ)

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1日1章のショートメッセージ「日毎のマナ」が本になりました(B5判・780ページ)。

創世記から黙示録まで、聖書全巻、全章の解説&ショートメッセージです。

著者 : 安藤俊悦 (あんどう しゅんえつ)

当教会先代牧師 1949年秋田県生 北海道大学理学部中退 北海道聖書学院卒

 

推薦のことば

この本は、・・・・聖書信仰と聖書通読の重要さが強調されています。

しかも、そのことを先生ご自身が実践して生み出された、目に見える貴重な実です。

この日音が、一人でも多くの人に用いられますようにおすすめいたします。

                    札幌希望の丘教会 牧師 竹本邦昭

まことにすばらしい本が出版されました。

この『日毎のマナをこころから推薦いたします。

   北海道聖書学院 元学院長・江別市三番通福音キリスト教会 牧師 小林基人

 

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もしくはFaxにて011-763-3890まで。

住所・氏名・電話番号をお知らせください。

価格は税込・送料込で3,200円です。
(旧約+新約です。新約または旧約のみの分冊はありません)

 

サンプル

【Ⅱ歴代誌】

第1章「神はソロモンに仰せられた。『そのようなことがあなたの心にあり、あなたが富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、 さらに長寿をも求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、』」11

 ソロモンは会見の天幕があるギブオンに行き、いけにえをささげ、民と共に主の御前に立ち、礼拝をささげます。「ソロモンと会衆は主に求めた。」とありま す。ソロモンが王となって進んで行くイスラエルの前途に対する主の導きと守り、祝福を求めました。その夜、主はソロモンに現われ「あなたに何を与えよう か。願え。」と言われました。ソロモンは主の民イスラエルを導く知恵と知識を求めます。自分が治める民は主の民であるという深い自覚があったからです。そ れに対して主は「そのようなことがあなたの心にあり、」と、ソロモンの思いの中に“主の民としてのイスラエル”という自覚があった事を喜ばれました。そし てソロモンが自分の為に、「富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、さらに長寿をも求めず、」主の民を治める為の知恵と知識 を求めた事を喜ばれました。「…を求めず、…を求めず、」とありますが、これは何を意味しているのでしょうか。民を治める知恵、知識と共に、富や誉れを求 めても良かったのではないでしょうか。でもソロモンは求めませんでした。彼は自分の事ではなく、主の事、主の民の事に関わる事を求めたのです。主の事も自 分の事もという器用な生き方は出来ない事です。でもそれを試みるのが人間です。しかしソロモンは自分の事に関わる事については「…を求めず、…を求め ず、」とはっきりと言われています。主はそのようなソロモンに、彼が求めた知恵と知識に加えて、求めなかった富や誉れなどをも与えられました。主イエスが 教えてくださった事です。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ 6:33)「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ 10:39)これは霊的な事柄の原則です。

 
第2章「私が建てる宮は壮大な宮です。私たちの神は、すべての神々にまさって偉大な神だからです。」5

 主の為に何事かを成そうとする時に、主をどのように理解しているかによって向かう姿勢が違ってきます。日本の教会での話ですが、自分の家で新調するので 使わなくなった物を教会に献品するという話がありました。自分は新品を使って、主の為にはお古をまわすという話です。牧師が嘆いていました。牧師の牧会の 結果でもあるわけですが。昔ヨーロッパでは町造りをする時に、まず中心に教会を建てました。主を第一にしようという姿勢がそこに現われているわけです。ソ ロモンは「私が建てる宮は壮大な宮です。」また「私の建てる宮は壮大であり、みごとなものだからです。」と言っています。それは「私たちの神は、すべての 神々にまさって偉大な神だからです。」という意識をソロモンが持っていたからです。もちろんソロモンが力の限りを尽くして壮大な宮を建てたとしても、主に ふさわしい宮と言う事は出来ません。なぜならソロモンも自覚しているように「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる 力を持っているというのでしょうか。また、主のために宮を建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者です。」天は主 の御座、地はその足台です。人間が主の為にするわざは到底主の偉大さに及ぶものではありません。ただ主に最善のものをおささげするだけです。主は一人の貧 しいやもめがささげたレプタ銅貨二枚を喜ばれました。規模や豪華さ、金額の多少ではなく、主に対してその人が出来る精一杯のささげ物、奉仕をする時に主は 喜ばれるのです。礼拝とは「価値あるものを、価値あるお方にお返しする事である。」と言った人がいます。その場合、主をどれほど価値あるお方と認識してい るかによってささげる物も変わってきます。ソロモンは「私たちの神は、すべての神々にまさって偉大な神だからです。」と主を讃美し、彼の力の限りの神殿を 奉献しようとしました。教会時代の神殿は一人一人のクリスチャンによって構成される教会が神殿そのものです。大理石や金銀ではなく、クリスチャン一人一人 によって建てあげられているものです。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:5)生ける神の宮は生ける教会です。 この教会に主はおられるのです。主へのささげ物は主を尊んで為されるものでなければなりません。また主の神殿を形造る私たちは、自分自身を生ける石として ささげるべきです。

 
第3章「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそ のため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」1

 「主がその父ダビデにご自身を現わされた所」とは、「エブス人オルナンの打ち場」と言われています。「エブス人オルナンの打ち場」はダビデ に対する主の 怒りが止められたところです。(→Ⅱサムエル記24章)そしてここはモリヤ山上と言われています。それはアブラハムがイサクをささげた所です。実際にはさ さげられませんでしたが、アブラハムの心の中ではささげられたと同じでした。(→創世記22章)独り子がささげられ、神の怒りが止んだ所。まさにここにお いて、ソロモンが神殿を建てた約千年後に、神の独り子主イエスが私たちの罪の贖いの為に十字架におつきになったのです。アブラハムがイサクをささげた千年 後にソロモンが神殿を建て、その更に千年後に主イエスが十字架に架かられたのです。私たちの考えるスケールを越えた神の壮大な歴史を感じます。アブラハム は、神がなぜイサクをささげるようにと言われたのかその理由は知りませんでした。ただ信仰によって神のみことばに従ったのです。ダビデ、ソロモンも、これ から千年後にここで何が起こるのか、なぜ主がここを指定されたのか知る由もありませんでした。彼らが神に従ったのは信仰によります。すべては主イエスにお いて完成するのです。その完成に到る一つの過程を彼らは信仰によって歩み、行なったのです。私たちの人生も同じです。私たちの人生は私たち一人の生涯で完 結するのではなく、主イエスの来臨の時に完結するように導かれているのです。私たちの歩む行程はそれぞれ皆違います。しかし主が与えてくださった環境、期 間、そして導きの中で、信仰による従順と喜びを持って生きる時、私たちは主の来臨の時に一つのすばらしい織物を見るように、信仰によって歩んだ神の聖徒た ちによって織られた神の歴史を見て、さらにその中に自分の生きた軌跡も織り込まれている事を見出して神のみわざのくすしさに感嘆する事でしょう。神殿は幕 屋の二倍の大きさに造られました。

 
第4章「こうして、フラムは神の宮のためにソロモン王が注文した仕事を完成した。すなわち、二本の柱と、二本の柱の頂にある丸い柱頭、および、柱 の頂にある丸い二つの柱頭をおおう二つの格子網、…」11-12

 計りきれないほどの大量の青銅と、またふんだんに金を使って神殿とその備品が造られました。ハーレーのハンドブックによれば、この神殿造営 に要したお金 は、現代の金額に換算すると7,200億から1兆8,000億円(ずいぶん幅がありますが)という事です。大変な金額です。長さ27m、幅9m、高さ 13mの大きさの神殿にかけた費用です。私たちの想像に余りある壮麗な神殿であった事でしょう。用いられた金属は金と青銅のみです。銀や鉄は用いられませ んでした。神殿内部に用いられたのはすべて純金でした。最高の物を用いて造られたのです。銀は用いられませんでした。もちろん腐食する鉄も。永遠の存在で あり、至高のお方である方の神殿には最高の物のみが用いられたのです。この為にフラムが職人の長として任命されました。彼は自分に与えられた仕事を完成さ せました。ソロモンが注文した通りに仕上げたのです。彼はその技術を持っていました。神から与えられた才能です。一人一人が持っている才能はすべて神から の賜物です。クリスチャンの場合はそれを御霊の賜物とはっきり言いますが、すべての人が持っている才能、能力は神からの贈り物です。私たちはこの御霊の賜 物を用いて、今キリストの体である教会を建築しているのです。建て主は主御自身です。この場合フラムに当たるのは御聖霊と言う事が出来るでしょう。「この キリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:22)「キリストによって、からだ全体は、一つ一 つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建 てられるのです。」(エペソ4:16)そして完成した麗しい教会をキリストは御自身の花嫁として迎えに来られるのです。主キリストの再臨です。その時はも う近いのです。「こうして、フラムは神の宮のためにソロモン王が注文した仕事を完成した。」

 
第5章「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシ ンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すな わち主の宮は雲で満ちた。」13

 「主を賛美し、ほめたたえた。…主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。…主の栄光が神の宮に満ちたからである。」「け れども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)主は讃美を住まいとされ、イスラエルが声を合わせて讃美した 時に雲の中に御自身の栄光を現わされ、また臨在を現わされました。このように見ますと、讃美は大変に重要なものである事が分かります。礼拝のプログラムの 中で讃美は私たちにどのように受け止められているでしょうか。讃美は決して刺身のつまのようなものではなく、礼拝の中心的なプログラムの一つであるべき事 が分かります。“主に向かって”讃美した。心を主に向ける時、讃美は生きたものになります。礼拝の場にいながら心は主に向いていないというような時、讃美 は義務的なもの、おざなりなものとなります。また「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」(詩篇33:1)とあり ますように、讃美は主の御前に責められる事の無いまったき良心の平安な者の心からあふれるものです。ですからキリストのみわざによって罪を赦された者の口 からあふれ出るものです。讃美は実に唯一の神、主を信ずる聖徒たちのみにあるものであり、また教会の大きな特徴です。ソロモンは、いつくしみに満ち、また 全能の神である主が自分たちの中に住まわれる事を喜び、感謝し、ほめたたえました。どんなに壮麗豪華な神殿を造っても天地の主にふさわしいものはありませ ん。ソロモンは良く知っていました。そのような聖にしておおいなる神が自分たちの中に住まわれるのです。ソロモンの建てた神殿を御住まいとされるのです。 こんな喜びはありません。このソロモンの喜びに勝る喜びが教会にあるのです。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満 たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)心からの讃美、「まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美」する教会で ありたいと思います。

 
第6章「あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天から聞いて、赦し、ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あな たはその心を知っておられます。あなただけが人の子らの心を知っておられるからです。」30

 「イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、主がイスラエル人と結ばれた主の契約が納められている箱をそこに置いた。」神殿の中心に置かれたのは 契約の箱です。十戒が納められた箱が“神の箱”、また“契約の箱”と呼ばれているものです。十戒は「主がイスラエル人と結ばれた主の契約」です。この十戒 に従ってイスラエルは生きる事を約束し、主はいのちと祝福を約束されたのです。しかしソロモンの祈りは、イスラエルが主の御前に罪を犯した時の悔い改めの 祈りを受け入れてくださるように、という祈りで貫かれています。神殿が奉献される際の祈りとしてはふさわしくないようにも思えますが、人間が主の前に完全 ではあり得ない事の告白であり、また主イエスが譬で話されたところの主の宮の前で自分を誇ったパリサイ人のあのような祈りではなく、不完全な者であるゆえ に主のあわれみを求めて神殿に来る者の祈りです。主の神殿は自分を誇る為に来る所ではなく、主のあわれみを信じて、へりくだって来る所です。その際の悔い 改めの祈りの真実さは、主が心を見られるお方であるゆえに主の御前には明らかです。たとえどんなに多くの犠牲をささげたとしても、それがポーズだけの悔い 改めなのか、それとも心からの悔い改めなのかは、その人の心を見られる主には明らかな事です。そしてそれは、どんなにたどたどしい言葉の祈りであったとし ても、主が聞いておられるのは祈りの言葉の流暢さとかたどたどしさではなく、その言葉を発する心だという事です。人の耳に聞こえる祈りの響きと、主が聞い ておられる祈りの響きは必ずしも同じではありません。ひょっとしたらまったく違っているかもしれません。神殿は“祈りの家”です。
 

第7章「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満 ちた。祭司たちは主の宮にはいることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」1-2

 「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。」火が天か ら下って来たという事は主がこのささげもの(礼拝)を受け入れて下さった事を意味します。そして「主の栄光が主の宮に満ち」ました。「イスラエル人はみ な、…ひざをかがめて顔を地面の敷石につけ、伏し拝んで、…主をほめたたえた。」とあります。地面にひれ伏す。これほど主の臨在と栄光に圧倒されて主を礼 拝する経験は滅多にない事でしょう。それにしても礼拝の姿勢については各自が考えるべき事だと思います。イスラム教徒はどこでも決められた時間にひざまず いてメッカの方に向いて祈ります。彼らは絶対神アッラーを信じ、畏敬の念を持っています。確かに彼らの信仰の対象は間違っていますが、彼らの姿勢からは学 ぶ事があると思います。アメリカに教会見学に行った時、ある大きな教会で青年会の集会に参加しました。リーダーが前に立って祈っていました。その姿勢が、 両手をズボンのポケットに突っ込んで、両足を開いて突っ立ち、顔を天に向けて祈るというものでした。(なぜかその時私は目を開けて彼の祈る姿を見ていたの でした)私はその姿に少なからずショックを受けました。そこには天地の主に祈るという敬虔さを感じる事は出来なかったからです。主に対して親しさを感じる 事と敬虔な思いを持つという事は相矛盾する事ではないのに、そこではこの二つが分離しているように感じられました。文化の違いという言葉で片付けられる問 題ではないと思います。宣教師のこのような姿勢にインドネシアイスラム教徒はつまずいたと聞きました。その程度の神なら信じるに値しないという事です。 クリスチャンの礼拝の姿勢からクリスチャンの信じている神をそのイスラム教徒は判断したのです。私たちは自分がどなたの前に出て礼拝をささげているのかを 自己吟味する必要があると思います。主が受け入れてくださる礼拝には主の臨在があります。ささげ物に自分で点火するのは死んだ礼拝です。新約時代、教会は 聖霊が住まわれる主の宮です。主の栄光が満ちる主の宮でありたいと思います。その為にはまず、教会が主の宮であるとの自覚が必要です。前章にあった神殿奉 献の際のソロモンの祈りに対して、主はそれを聞き入れられました。そして「今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたし は、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」と約束されました。クリスチャ ン一人一人は主に聖別され、選ばれた者。ですからすべてのクリスチャンは“聖徒”と呼ばれます。主の御目と御心は、いつも私たちの上にあるのです。悔い改 めて祈る時に、いつも主はそれを聞いておられるのです。主が聞き逃される事はありません。

 
第8章「すなわち、モーセの命令どおりに、…これをささげた。」13

 この章には神殿建築と宮殿建築の他のソロモンの業績が記録されています。多くの町々を建て、エルサレムの防備も整えました。「ソロモンがエルサレムや、 レバノンや、すべての領地に建てたいと切に願っていたものすべてを彼は建設した。」とあります。王としてのソロモンは、自分の願うように事を行なう権力と 財力を持って念願としていた事業をことごとく完成させました。イスラエルの頂点に立つ王でありました。しかし彼はいにしえの神の人モーセの戒めを守り、ま た彼の父である「神の人ダビデ」の定めに従いました。「すなわち、モーセの命令どおりに、…これをささげた。」また「彼はその父ダビデの定めに従い、…を させた。」とある通りです。ここに大切な教えがあります。どんなに成功し、繁栄しても、主を恐れる事を忘れない人は幸いです。「ソロモンはイスラエル人を 自分の仕事をさせる奴隷にはしなかった。」という事にもソロモンが主を恐れている事が現れています。人は成功し、繁栄し、力を持つようになると往々にして 自分を見失い、高慢になっていきます。高慢は少しずつ少しずつ忍び寄ってきます。みことばによる自制がきかなくなって来ます。みことばを人には厳しく適用 しても、自分には多くの例外を認めるようになるのです。そして本人はその事に気がつかないのです。主を主とする謙遜さはみことばへの従順さの中に養われま す。「毎日の日課により、これをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごと に、これをささげた。」「毎日の日課として、祭司たちの前で賛美と奉仕をさせた。」毎日の事として、日常の事としてみことばに従う中で、主を主とする事が 私たちのものになるのです。
 

第9章「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞 くことのできるこの、あなたの家来たちは。」7

 シェバの女王がソロモンの名声を聞き訪ねてきました。人の話はたいてい尾ひれがついて実際よりもオーバーになりがちですが、(シェバの女王も内心そのよ うに思って来たようです)しかしエルサレムにやって来たシェバの女王は本当に驚いてしまいました。それは「驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知ら されていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方」だったからです。何もかにもが女王の想像を超えていたのです。「シェバの女王は、ソ ロモンの知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たちとその服装、主の宮に上る階段を 見て、息も止まるばかりであった。」“主の宮に上る階段を見て”という表現は、シェバの女王がいかに女王であったとしても、祭司しか入る事の許されなかっ た神殿の中は見せてもらえなかった事を意味しています。しかし階段だけを見ても感嘆したというのですから、ソロモンの建てた神殿の素晴らしさが想像できる というものです。シェバの女王が感嘆したソロモンの知恵、諸国の王が「神が彼の心に授けられた知恵を聞こうとして」謁見を求めたソロモンの知恵。しかし、 「しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)と言われたお方がいるのです。その方は私たちの主イエスです。 私たちはキリスト教についてうわさに聞いていました。クリスチャンの知人から聞いた人もいるでしょう。しかし、実際に私たち自身が聖霊によって個人的に知 らされた主イエスは、人から聞いたイエス・キリストという方よりもはるかに素晴らしいお方だったのではないでしょうか。私たちはこの方の知恵によって今生 きているのです。「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞く ことのできるこの、あなたの家来たちは。」シェバの女王がうらやんだのは私たちの事です。

 
第10章「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、かつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を主が実現するために、神が そうしむけられたからである。」15

 「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、…神がそうしむけられたからである。」これだけを読むとレハブアムの暴君的な物言いはレハブアムの責任では なく主がそうなさった事のように思えますがそうではありません。神はレハブアムの意思を無視して操り人形のようにレハブアムを扱ったのではありません。そ もそも王国分裂のきっかけは、歴代誌は記述していませんが、ソロモン王の偶像礼拝にありました。そしてレハブアムの人の痛みを思いやる事の出来ない性格が きっかけとなったのです。彼は王国が繁栄している時に王子として何不自由無い中で成長しました。回りにいた若者たち、レハブアムが相談した若者たちも同じ ようなものだったのでしょう。苦労知らずのレハブアムたちはソロモン王のもとでの民の労苦を思いやる事が出来ませんでした。それどころか王になる、また若 者たちはその側近になるという事で調子に乗っていたのでしょう。長老たちの思慮深い意見を退けて高飛車な態度に出ました。王として仕えるという姿勢はまる で無く、民を私物化して君臨するという態度でした。ここには神を恐れるという姿勢を見る事は出来ません。「レハブアムはシェケムへ行った。全イスラエルが 彼を王とするため、シェケムに来ていたからである。」彼は父ソロモン王の跡を継いで当然のごとく王になると思ってシェケムに出かけて行きました。しかしそ こにはヤロブアムがイスラエルの民と共に、王に陳情する為に来ていました。そしてそこでレハブアムは傲慢な態度を取ったのです。彼に主を恐れる思いがあっ たらこのような態度は取らなかったでしょう。当然のように王になるものではなく、主のお許しがあって人は王位につくのです(これは王位だけの事ではありま せん)。異邦人の王バビロンのネブカデネザル王もこの事を知らされました。「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたも のです。」(ローマ13:1)まして主の民イスラエルの王はなおさらの事です。しかしレハブアムにこの思いはありませんでした。「あなたがたには、何か、 もらったものでないものがあるのですか。」(Ⅰコリント4:7)とある通り、私たちが持っているものはすべて主からの賜物であり、あって当たり前、という ものは無い事を心に銘記すべきです。

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