札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「疑惑を通して信仰に至る」 マタイによる福音書 第11章2‐6節

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獄中のバプテスマのヨハネの斬首

11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、

 11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

 11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

 11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

 

バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は、祭司ザカリヤとエリザベツという不妊の老夫婦から生まれ、また天使を通してその誕生が予告され、生まれたときから聖霊に満たされていた(ルカ第1章)、神の働きのために選び分けられた神の器である。その働きとは、来たるべき救い主の道備えをすること、すなわち、神から離れて生きている人々の罪を明らかにし、罪を捨てて神のもとへと立ち返るように警告すること、そして、イエスこそ私たちを罪から救い、神の子としてくださる救い主、メシアであることを明らかにし、人々をイエスのもとへと導くことであった。

 しかし、そのような偉大な器であるバプテスマのヨハネも、ヘロデ・アンティパス王によって捕らえられ、投獄され、そして、獄中で弟子たちを通して主イエスのお働きについて知らされるうちに、このお方が本当に来たるべきメシア、キリストであるのかどうかについて、疑念を持つに至った。そして、弟子たちを通して、イエスに次のように問うたのである。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは、別の方を待つべきでしょうか。」

 ユダヤの国を救い、ローマの圧制から解放し、地上に平和と正義を実現するというメシアの預言と、依然としてローマの圧制の下に苦しんでいるユダヤの国、また獄中に捕らわれている自らの姿を見たとき、バプテスマのヨハネといえども、このような疑いや惑いに襲われ、悩まされることがあったとしても不思議ではない。

 新約聖書全巻を与えられている後世の私たちは、彼の疑問に対する神学的に正しい答えを知っている。世界の真の正義と平和のためには、まず、一人一人の人間が罪赦され、そして罪の力から解放されなければならない、そのためにはまず、罪の無い神の独り子である救い主が、全ての人の罪の身代わりとなって死に、よみがえる必要があるのである。また、全世界の永遠の平和、全ての罪と悪に対する裁き、善に対する報いは、主イエスが王として再びこの地上においでになる再臨の後、最後の審判において実現する。新約聖書の啓示を与えられている私たちはヨハネの疑惑に対するその答えを知っている。

 しかしながら、主イエスはバプテスマのヨハネに対して、自分が確かに旧約聖書の預言の成就でありメシアであることを伝え、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」とのみ言われた、このことに注目したい。主イエスは自らが預言された救い主であることをその業によって示され、それ以上のことは安んじて神の御心に委ね、信頼して御自分の後に従ってくること、死にまでも従ってくることを求められたのである。

 私たちもまた、試練や悩みの中で、疑惑や恐れにおそわれることがあるであろう。そのような時に、全てのことが自分の願った通りに進んでいくとは限らない。また、全ての出来事の意味の説明が与えられるとも限らない。しかし、確かに言えることは、疑惑や恐れの中にあっても、あくまでも主イエスにすがり、自らの全ての思いをありのままに差し出していくなら必ず、「私はあなたのために死んでよみがえった、あなたの救い主である。私は全てを支配し、すべてを働かせて益とする。恐れないで私に全てを委ね、従いなさい。」との御声を聞くであろう、ということである。

 世の有様につまずくこと、人につまずくこと、自分自身につまずくことがあっても、私たちはそれら全てをありのまま、主イエスに差し出し、どこまでもこのお方にすがり、信頼し、待ち望む者になろうではないか。その時に、「誰でも」すなわち、どんなに弱い者、惨めな者、罪に悩む者であっても、「私につまずかない者は幸いである」という御言葉の真実を私たちは体験するであろう。

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