札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

主題説教 「永遠の幸いの道」  エレミヤ書6章16節

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預言者エレミヤと書記バルク

「主はこう仰せられる。『四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見出せ。(エレミヤ6章16節)』」

 

  神がこの聖句聖句を通して語っておられる第一の命令は、「四つ辻に立って見渡せ」です。その具体的な意味はこうです。「人生において、この世の慣習や、成り行きにまかせて、性急に、深く考えることもなく、人生の道を決めてはならない。むしろ、立ち止まって、じっくり腰を据えて、あらゆる面から熟考しなさい。自分の内面と、行こうとしている道、その行きつく末を眺めなさい。」

 

  私は高速道路で車を運転していた時、ついうっかり分岐点で曲がるべき道を曲がり損ねたために、正しい道に戻るのに大変苦労するはめになったことが何度かあります。正しい道を選び損ねた時は、決まって、正しい道と間違った道の分かれ道がどこにあるかを前もって調べもせず、行き当たりばったりでも何とかなるとの甘い見通しで出発し、運転中も、分岐点を予測せずに、ただ周りの流れに任せて緊張感なく運転していました。

 

  神と共に歩む人生においても同じようなことが度々起こります。エバが蛇から誘惑された時、アブラハムがサラからハガルのもとに行くよう勧められた時、ロトがアブラハムから住むべき土地を自由に選ぶように言われた時、エサウが長子の権を手放すよう持ち掛けられた時、ヤコブがリベカから、父と兄を騙すように持ち掛けられた時、アロンがイスラエルの民から金の子牛を作ることを要求された時、彼らが立ち止まって熟考し、祈り、神の言葉を思い出し、四方を見渡し、先を見通していれば、自分が間違った道を選んだことを知って後悔することは無かったことでしょう。

 

  クリスチャンとして、この世の風潮や時代の流れに押し流されないように、しっかりと立つために時間をとることは極めて大切なことです。現代においては過去のいかなる時代にも増して、このことが重要になっていると言えるでしょう。現代の生活の忙しさや慌ただしさだけでなく、テレビに加えて、近年のインターネットとスマホの普及によって、私たちはいつでもどこでも、この世の情報の絨毯爆撃にさらされるようになったからです。このことは私たちの日々の信仰生活の土台を浸食しています。毎日聖書や信仰書を読み、祈ることは、あまりにもしばしば片隅に追いやられ、大急ぎでいい加減に片付けられています。この世の慌ただしさと、この世の情報の氾濫によって、私たちは立ち止まってじっくりと自分の内面を省み、何が神に喜ばれることであるか、そのために自分は何を改めるべきであるか、何が私たちに忍び寄っている誘惑であるか、それに対してどのように警戒すべきであるか、そのようなことを、日々じっくり考えなくなってしまいます。故意に、望んで、キリスト教信仰をないがしろにしているわけではありませんが、多くの者は、時間を取り分けて、じっくり腰を据えて、自分の生活と魂の状態を評価し、吟味し、点検しようとはしないのです。

 

 あなたはどうでしょうか。新聞や、雑誌や、インターネットや、テレビや、スマホや、お金や、取引や、土地や、株や、選挙や、政治や、国際関係や、子育てや、社交や、音楽や、スポーツや、レジャーや、趣味、そういったもの自体が悪いわけではありませんが、私たちは、そういったもの自体のためにこの世に置かれているのではありません。それらを通して神に仕え、神の栄光をあらわすためにこの世に遣わされているのです。死と、裁きと、永遠は夢物語ではなく、いつか、嫌でもそれに直面しなければならない時が来ます。その時に、パウロのように、「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。(Ⅱテモテ4:6-8)」と言えるようになるためには、日々、じっくり腰を据えてそれらと正面から向き合い、神の言葉を読み、自分の生き方について、神について、考え、思いを巡らす時間を設けることがどうしても必要なのです。

 

  神がこの聖句を通して次に命じておられることは、「昔からの通り道はどこにあるかを尋ね、それに歩め」ということです。「昔からの通り道」とは、神が人間の救いのためにお与えになった救いの道、信仰の道のことです。信仰の道とは単なる道徳の道、修養の道、善行の道のことではありません。「あなたは誠実で、善良で、親切で、愛に満ちていなければならない」などといったあいまいで漠然とした道の事ではありません。神に背いて霊的に死んだ者となったアダムとエバに対して、神は道徳を語られたのではなく、悪魔にかかとを噛まれて傷を負うが、悪魔の頭を踏み砕くという、救い主の到来を約束してくださいました(創世記3:15)。この救い主の到来の約束は、子孫たちに受け継がれ、さらに、アブラハムにおいて、モーセにおいて、ダビデにおいて、イザヤやダニエルやミカやゼカリヤらの預言者において、さらに詳細で、明瞭な啓示を神は与えてくださいました。エレミヤ書のこの御言葉に書かれている昔からの通り道、信仰の道とは、神が遣わしてくださる救い主の到来を信じる信仰であって、漠然として曖昧模糊とした倫理道徳の道ではありません。歴史上のある日に、目で見、手で触れる形で、歴史的事実として、子なる神が人となって処女からお生まれになり、歴史上のある金曜日に私たちの罪を負って十字架上で死なれ、その2日後、歴史上のある日曜日の朝に、死と罪に打ち勝ってよみがえられ、歴史上のある日に弟子たちの見ている前で天に昇られたのです。そして未来の歴史上のある日に、すべての者をお裁きになり、罪と悪を一掃し、新しい世界を統べ治められるために、全ての者の目に見える形で、再びおいでになると約束されました。旧約時代の聖徒たちは、この救い主の到来を将来に起こることとして信じ、新約時代の聖徒たちは、救い主の到来と救いの御業を既に起こったこととして、そして救い主の再臨と最後の審判を将来確実に起こることとして、信じるのです。過去においても現代においても、多くの者がこの道を時代遅れの迷信として嘲ってきました。しかし、この道こそ、神が語られた、昔からの通り道、ただ一つの救いの道なのです。

 

  最後に、神が語られた「いこい」について考えてみましょう。この「いこい」とは、人間的な、安っぽいありきたりなものではなく、神が与えてくださる真のいこいを指しています。富や教養や社会的地位があろうとなかろうと、あらゆる人間は、生まれながらにこの神から賜った「いこい」を持っていません。王であろうと貴族であろうと、権力者であろうと億万長者であろうと学者であろうと、何の例外もなく、人々の心は倦み疲れ、真に心安らぐことがありません。その原因は、生まれながらの人間は神と敵対し、神との平和を持っていないからである、と聖書は語っています。人間は偶然の積み重ねによる進化の結果として無目的に生み出されたものではなく、神との交わりのために、「神のかたち」を持ったものとして創られたため、そこから外れた状態においては、決して心安らぐことはないのです。

 

  人々はしばしば自分の罪深さを感じます。彼らは、その感覚が実際には何を意味しているのか知らないかもしれませんが、原因はわからなくとも、自分の内側の何かがおかしいことはわかるのです。人々はまた、全ての人の人生の結末として待ち受けている死を思い、虚しさに襲われますが、必死で目を背け、それについては考えまいとして生きています。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と言われましたが、そのような人は、あらゆる時代、あらゆる国、あらゆる階級において普遍的に見られるのです。人は、家や、土地や、金銭や、車や、ごちそうや、最先端の電子機器や、家族や友人に囲まれていても、その心はいこいを知らず、倦み疲れているのです。

 

 救い主に対する信仰の道は、あらゆる人の根本問題である、罪と死の問題を解決し、神との平和を与えます。人は、神の御子が自分の罪を赦すために十字架で死んでよみがえって下さったことを信じた時、人は神の前で自分の罪と咎が完全にゆるされ、肉体の死の向こうに永遠のいのちが与えられたことを知り、心に真の平安を感じ始めるのです。また、日々の生活の中で、父なる神が常に自分のことを心にかけてくださり、御子イエスが自分のために絶えずとりなしをしていてくださることを実感するにつれて、その平安はさらに増し加わります。また、自分の内に神の御霊が住んでおられ、自分の物の見方、感じ方、考え方に良い影響を与えて下さっており、心は父なる神に惹きつけられ、信頼し、従いたいと感じるようになり、自分が永遠のいのちを与えられ、完全にゆるされた子供であることを実感することによって、その平安はさらに強くされます。また、主イエス・キリストが心の王座について下さり、その心と生活に、欲望と混乱に代えて、目的と秩序と統一を与えてくださるにつれて、その平安をさらに理解し、深く味わうようになります。

 

 ある信仰者はこの平安を大きく悟っており、ある信仰者はそれほど悟っていないかもしれません。ある信仰者はそれをたまにしか感じませんが、ある信仰者は殆ど常にそれを感じているかもしれません。すべての信仰者は、それを絶えず深く感じるようになるまで、不信仰と恐れとの戦いを多く経験させられます。しかし、キリストに来た全ての者は、この平安のなにがしかを知っています。この平安は人に真のいこいを与えるものであり、全ての罪と咎がゆるされたという解放感と、愛され守られている子供としての喜びと、人間が生きる目的の謎に対する解答を伴います。これこそ、エレミヤを通して神が宣言された「いこい」であり、キリストが、あらゆる疲れた人、重荷を負った人に与えようと申し出ておられる「休息」に他なりません。あなたはそれを、自分のものとしているでしょうか。また日々、さらにそれを深く味わうことを追い求めているでしょうか。

 

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