札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「キリストと共に嵐を越える」 ルカによる福音書 第8章22‐25節

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レンブラント「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」

 

8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。

8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。

8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 

 

 主イエスはある日、ガリラヤ湖の向こう岸へと渡るため、弟子たちの小船に乗りこまれ、「向こう岸へと渡ろう」とおっしゃった。私たちの人生もまた、湖や川を渡ることにしばしば喩えられる。より良いものが待っている向こう岸へと渡るために、様々な苦難や危険が待ち受けている湖上へと漕ぎ出していくのである。仏教では、様々な苦しみや悩みに満ちた現世を此方の岸、すなわち此岸と呼び、それらの苦難から解放された悟りの世界、すなわちあの世を、彼方の岸、すなわち彼岸と呼んでいる。一切の悩み苦しみから解放された向こう岸の世界にたどり着くために河を渡ることに、この人生を喩えた表現である。

しかし、私たちに正しい人生の向こう岸、真の目的地を示して下さるお方は、主イエスキリストただお一人である。人間は何のために生きているのか、その答えは、私たち人間そして全宇宙を創造され、今も万物を支え支配しておられる、唯一の主なる神から離れては、決して見出すことが出来ない。どれほど知性の優れた、どれほど真面目な人間が、どれほど熱心にそれを探求したとしても、主なる神と、救い主イエスキリストを離れては、人生の目的も、生きる意味も、知ることはできない。神は人間の知恵を愚かなものとされ、生まれながらの人間には愚かに聞こえる、福音の知らせを信じる者を救おうと定められたからである(Ⅰコリント1章)。

主イエスキリストを信じ受け入れる者には、日々主が共におられ、正しい導きを与えられる。私たちは日々、主と共に新しい一日へと漕ぎ出し、そのことを通してより深く神の愛と真実を知る者とされ、また、神の家族としてお互いに深く愛し合う者とされていく。その行き着く先は、天国における、神と共なる永遠の命である。

さらに、私たちは信仰によって恐れに打ち勝つ者である。しばらくすると、ガリラヤの湖は激しい嵐となったが、主イエスは、すべてを主にゆだね、平安のうちに、船尾にて深く眠っておられた。弟子たちは、船が転覆して自分たちは溺れ死ぬのではないかと恐れ、主イエスを起こし、「私たちは溺れて死にそうです。私たちが溺れ死んでも何とも思われないのですか。」と訴えた。主イエスは風と荒波とを叱りつけられ、嵐を静められた後、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と、弟子たちを叱責された。

弟子たちと同じように、私たちの信仰もまた、小さく薄いものであるかもしれない。人生の嵐を前にして、神の愛と守りを疑い、恐れて、主なる神に対してすら、怒りや批判的な思いをもつことがあるかもしれない。しかし、そのような者ですら、主イエスは見捨てることなく、救い出し、叱責し、さとし、養い育ててくださる。

主イエスは天においても地においても、一切の権威を与えられたお方であり、このお方が私たちを選び、私たちの船に乗り込まれ、「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったのである。このお方が、どのような人生の嵐をも乗り越えさせ、正しい目的地へと導いてくださる。恐れることはない。思い煩うことはない。「私たちの信仰を強くしてください、主イエスと共に恐れに打ち勝ち、嵐を乗り越える者としてください」と、確信を持って祈ろうではないか。

 

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