札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

主題説教 「隠された宝を見つけた者」 マタイによる福音書 第13章44節

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「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイによる福音書13:44)」

 

 

主イエスのこのたとえ話は、「神の宝は、人の目からは隠されており、神によって目を開かれた者のみがそれを見つける。その人は全てを引き換えにしてでも、喜んでそれを手に入れる」ことを教えています。宝の存在を知る者と知らない者との間には、鋭い対照があります。畑の中に宝が隠されていることを知らない者たちは、全財産をはたいて、一見何の変哲もない畑を買ったその人を、無駄金を費やした愚か者と思う事でしょう。しかし、宝を手に入れたその人は、そのような人からの評判は、まったく気にせず、心はこの上ない喜びで満ちている事でしょう。

 

この宝が隠された畑とは聖書のことを指しているとも解釈できます。聖書を読む全ての人がそこに隠された宝を見つけ、手に入れるのではありません。聖書に隠された真の宝、天国の福音、それは神に目を開かれた者だけが発見し、手に入れることが出来るものです。その人たちは喜び、この地上の全てを引き換えにしてもそれを尊ぶことでしょうが、その宝を見ることが出来ない人たちにとっては、それは常軌を逸した、愚かな行為にしか見えないことでしょう。

 

聖書は、世界最大のベストセラーと言われます。確かにその通りですが、多くの人々は、それを、よく生きるための参考書、あるいはこの世で成功するための処世訓、人間の宗教的思想の展開の記録など、つまるところ結局は、神の言葉としてではなく、単なる人間の言葉として読んでいます。私は本屋でビジネス雑誌を立ち読みしているとき、「欧米人との付き合いには聖書の知識が必須」といった記述を見たことが何度もあります。また、如何にして金持ちになるかといった成功指南書の中にも、聖書に基づいた生き方をすることが成功の王道である、といったことを書いている本がいくつもあります。例えば「七つの習慣」という有名な世界的ベストセラーの著者のスティーブン・コビーという方は、(キリスト教の異端である)モルモン教徒だそうです。

 

また、聖書を人間の道徳的生き方や、理想的な社会の実現のための指南書、として読む人たちもいます。世界最大の文豪の一人、トルストイ(1828-1910)は聖書の熱心な読者であり、その著書の中で聖書を多く引用していますが、彼の所有していた聖書は、例えば山上の説教の個所において、主イエスの言葉から、「心の貧しい者は幸いである」の「心の」、「私のために迫害される時、天においてあなたがたの報いは大きい」の「天において」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」の「祈れ」といった言葉がペンで消し去られていたそうです。キリストを神からの救い主と信じずに道徳的模範とみなし、来世を当てにせずにあくまでこの地上において、私たちが自分で、目に見える形で、理想の社会を実現するのだ、というわけです。確かにそのような理想主義がトルストイのどの作品からもにじみ出ています。しかし、当然のことながら、彼は行き詰まり、絶望し、人生の無意味さに苦しむようになりました。妻とも深刻な不和に陥って、家出して寂しく死を迎えました。死の前に、妻を自分のそばに近づけないようにと言い残したそうです。日本の文学者では、有島武郎(1878-1923)が、聖書に対してトルストイと同じような向き合い方をして、同じような道を歩み、最後は人妻と不倫をして心中し、腐乱死体で発見されて当時の世間を騒がせました。こういった人々と聖書の関係については「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため(マルコによる福音書4:12)」と語られています。

 

また、来世を表立って否定まではしないが、聖書に書かれている、全ての人は罪人だとか死後の裁きとか地獄とか、キリストのみが唯一の救い主とか、キリストを信じなければ滅びるとかいった事は、真正面から受け止めずに適当に受け流し、ただ、神の愛とか、生きる意味とか、心の豊かさとか、苦しみの解決とか、豊かな教養とか、そういったことだけを漠然と語ってキリスト教の教師を自任している文化人も少なくありません。

 

大変有名な遠藤周作(1923-1996)というカトリック作家は「私にとって神とは」という著書の中でこう語っています。「最後に審判されるというおどろおどろしいことは私には向かないので、私自身あまり関心がないのです。私には、もっとほかのキリスト教の考え方があります。テイヤール・ド・シャルダン神父の考え方で、人間は過ちも犯すけれど、少しずつよきX(エックス)という方向へ向かっていて、そのXをキリストと呼ぶ、という考えのほうが、私には気持がいいのです。」「彼(イエス)はそこで、神とは、怒りの神でもない、裁きの神でもない、愛の神だ、ということを見つけて、洗者ヨハネ教団から離脱して、自分の教団を少しずつこしらえ始めたのです。イエスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のほうです。イエスは人間に信頼感を持っていました。聖書の中で裁きのことをイエスが言っているのは、それはイエスが死んだ後、原始キリスト教団の意識を反映した部分だと思います。」

 

また、同じくカトリック作家の曽野綾子という方は、あるビジネス雑誌の「敵をも許す心安らかな生き方」という題の、キリスト教についてのエッセイを、このように締めくくっています。「特別な信仰をもつ必要はありません。でも、聖書について知らないと、世界情勢は理解できないんですけどね。」

 

また、「キリスト教の<教養>は、「孤独」に効く!」「日本人にも分かる、幸福の方程式」「神を信じない人にこそ役立つ本」「神は最強のカウンセラーである」とカバーに宣伝文句が書かれている、「キリスト教は役に立つか」という本にはこのように書かれています。「皆がキリスト者になるべきだとは思っていませんが、私にとって良かったことを「それは自分にも良いことかもしれない」「人生の役に立つかもしれない」と感じてくれる読者がいれば嬉しいと思っています。」「キリスト教とは「神の子が十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖った」と信じる宗教だと聞いている人もあるでしょう。それはそれで間違いではないのですが、日本人にとってのキリスト教信仰への入り口としては適切ではないと思うので、私の要約の中ではクローズアップされていません。「神と人がともに旅路を歩む」の中に含ませているつもりです。」「(キリストの福音は)この世界は「大丈夫な場所」であり、神が我々と共に歩んでくれるという世界観を示してくれます。」

 

また、カリスマ神父とも呼ばれる、非常に有名な、晴佐久昌英神父という方は、万人救済説に立って、「全ての人はすでに救われている。私はただそれに気づかせてあげているだけ。」というような事を言っています。

 

神が存在すること、神が憐れみ深いこと、死後に何らかの状態があること。彼らの信条の要約は実質的にこれ以上のものではなく、聖書に明確に記されている諸教理、特に人間の原罪や罪責や裁きや地獄などの厳しいものについては、実質的に無視しています。彼らの神は聖書に啓示された真の神ではなく、彼らの願望が造り出した天のサンタクロース、義もなく、聖さもなく、裁きもなく、漠然とした見境の無い憐れみのほか、なんの属性も持たない偶像の神です。その「信仰」は、順境におけるなぐさみ程度にはなるかもしれませんが、人が、人間の罪の深みの現実や人生の不条理、また、死と、その後に待ち受けている裁きの座に直面した時には何の役にも立たない、砂上の楼閣に過ぎません。こういった人々については、聖書はすでにこのように語っています。

 

「実に、彼らは、平安がないのに「平安」と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。しっくいで上塗りする者どもに言え。「それは、すぐはげ落ちる。」大雨が降り注ぎ、わたしが豹を降らせ、激しい風を吹き付ける。すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、「上塗りしたしっくいはどこにあるのか。」と言わないだろうか(エゼキエル書13:10-12)

 

「もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(ヨハネの黙示録22:18-19)」

 

「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。(Ⅰヨハネの手紙 4:5)」

 

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか(ヨハネによる福音書 5:44)」

 

これに対して、死後の裁きや永遠の命について、真正面から真剣に受け止め、救いを心から求めてはいるものの、救いは、人間の努力や功績によっては絶対に手に入らず、ただ主イエスがして下さったことを信じる信仰のゆえに、恵みとして与えられるものであるということを悟っていない人々、キリストの救いの御業を知らずに自分の行いによって救われようとしているために、喜びも平安もない人々がいます。例えば、もし(キリスト教の異端である)エホバの証人の信者の方々を個人的に知っているなら、彼らが死後の事を真剣に受け止めていないとか、天国のために全てを犠牲にして熱心に神に仕えようとしていない、といった非難をする人はほとんどいないでしょう。彼らほど真っ直ぐ、聖書に書かれている通りに天国の存在を信じ(一方、彼らの教理は地獄の存在を否定します)、そのために全てを犠牲にしてまで熱心に神に仕えようとしている人はなかなか居ません。しかし、パウロの周りのユダヤ人たちがそうであったように、彼らの努力は、正しい知識に基づかない見当違いの努力であり(ローマ10:2)、神に仕えているのではなく、人間の組織の奴隷となっているのであり、その心には真の喜びも、平安もありません。なぜでしょうか。それは、彼らは三位一体を信じず、主イエスが父なる神と一つである子なる神である事も信じず、子なる神ご自身が十字架の上で私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったことも、信じるだけでその人の全ての罪を赦し、神の子供としてくださることも、信じないからです。彼らがどれだけエホバの証人の教団に献金をしようと、家々を巡って伝道活動に励もうと、彼らの誤った聖書解釈に従って、命をささげてまで輸血拒否を貫こうと、神の前では何の価値もありません。神の子供として受け入れられ、天国の民とされる条件はただ一つ、神のひとり子が私を赦し、神の子供として下さるために、十字架に死んでよみがえって下さったことを信じること、ただこれだけだからです。その他には神への道は一切ありません。

 

マルチン・ルター、ジョン・バニヤン、ジョン・ウェスレーといった偉大な神の僕たちも、この畑の中の宝、キリストの救いの御業に目が開かれるまで、真の平安も喜びもありませんでした。ルターは修道院に入って、カトリック教会が救いの道として教えていた修道に励み、バニヤンは罪の自覚に苦しみながらひたすら祈って聖書を読み、ウェスレーはオックスフォード大学でホーリークラブを設立してきよい生活を追い求め、刑務所を尋ねて受刑者たちに聖書の説教をし、アメリカに渡って原住民に宣教をしました。しかし、彼らはいずれも、そのような事によっては何の平安も喜びも得ることは出来ませんでした。彼らは皆、自分の行いによらず、ただキリストが十字架で成し遂げてくださった御業を信じ受け入れることによって救われるという信仰義認の真理に対して目が開かれた時、真の喜びと平安を得、この宝のためならこの世の全てをなげうっても惜しくはないと喜んで告白したのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは神によって目が開かれ、聖書というこの畑に埋められた信仰義認という宝を見つけたでしょうか。行いによらず、キリストを信じることによって、全ての罪がゆるされ、神の子とされ、永遠のいのちが与えられたというこの特権を得ているでしょうか。この世の全てに勝る価値をそこに見出し、心から喜んでいるでしょうか。もしそうだとすれば、心に刻んでください。あなたは選ばれた少数の者であり、その事は、ありふれた事でも、よくある安っぽい事でもなく、むしろまれな事であると。(「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。(マタイ7:14)」)ある億万長者がロッキー山脈に財宝を隠し、10年にわたって35万人以上が探し続けたが、それを発見した人がついに現れたというニュースが最近ありましたが、あなたは彼など比べ者にもならない幸せ者であると。

 

極めて多くの人が、この畑には何かがあるらしいという噂を聞き、そこに足を踏み入れて、畑を調べはしたものの、宝を見出すことができなかったのです。神の御子があなたの罪を赦し、あなたを神の子となし、罪に打ち勝つ力と、神に喜ばれる新しい心と、天国での永遠の命を与えるために十字架で死んでよみがえられた。このことは聖書に明瞭に記されている神の偉大な奥義ですが、それは生まれながらの人間にとっては愚かなたわごとであり、神の御霊が選ばれた人の心を照らし、幼子の心を与えてくださらなければ決して信じる事はできないのです。聖書にこう書かれている通りです。

 

「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(Ⅰコリント人への手紙 1:21)」

 

「この世のとるに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです(Ⅰコリント人への手紙 1:28-29)」

 

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には、愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです(Ⅰコリント人への手紙 2:14)」

 

「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(マタイによる福音書 11:25-27)」

 

 

さて、主イエスを信じているのなら、畑はすでに買い取られて私たちのものとなっており、必然的にそこに埋められた宝もまた、すでに私たちの物であり、その事実は決して変わることはありません。しかし、ある意味では、その宝を掘り出して完全に味わい楽しむことが許されるのは、将来においてであることを私たちは心に留める必要があります。それは私たちがこの世を去って神の御許へと召される時であり、また、キリストが御再臨されてこの世が改まる時のことです。それまでは、私たちはこの畑に宝が埋められているという確信にしっかりと留まり続けるように心しなければなりません。

 

適切なたとえかどうかは分かりませんが、私は結婚するまでは、とにかく待たされ、忍耐させられました。十代の頃から、すぐにでも彼女が欲しい、結婚したいといつも思っていたのですが、どれほど祈って試行錯誤しても交際にすら至りませんでした。友達や知り合いの牧師先生に片っ端からお願いをして、お見合いをセッティングしてもらってもうまくいかず、クリスチャンの結婚相談所に入会して可能性のありそうな人には片っ端から申し込み、次々とデートをしても全く進展しませんでした。そして14人目に申し込んで、メールのやり取りをした途端、「この人だ!」と確信が与えられて、あっという間に結婚に至ったのが、今の妻です。もっとスムーズに結婚する人も多い中、どうしてここまで待たされ、忍耐させられ、試行錯誤させられたのか、その理由を完全に知っているのは神様お一人だけです。まあその理由の大部分は単に私が男性として未熟だったからに過ぎないでしょうが、しかしながら、一つだけ確信できていることがあります。それは、長い孤独を通らされた結果として、神が与えてくださる結婚が、私にとって絶対に必要なことであることを確信させられ、また、多くの女性とのお見合いを通らされた結果として、今の妻が私にとって最善の伴侶であることを確信させられたということです。もしそうでなく、すぐに結婚が与えられていたとしたら、「もっと他にいい人がいたんじゃないだろうか」とか「自分は結婚しない方がよかったんじゃないだろうか」といった思いに惑わされていたかもしれません。

 

同じことが信仰に踏みとどまることについても言えます。私は16歳の時、リビングバイブル(わかりやすく意訳された聖書の一つ)のローマ人への手紙を読んでいるとき、福音をはっきりと分からされ、喜んで信じました。若い日に純粋な福音の真理を知り、信じることが出来たのは素晴らしい特権でしたが、しかし、それまでの人生で、自分の罪の深さを体験的に知っていたわけでもなく、思想的な遍歴を経た結果でもなかったため、悪魔から来る以下のような惑わしに、免疫がなく、非常に無防備でした。

 

「キリストを信じればそれだけで全ての罪がゆるされるなんて、本当だろうか」「単純すぎるのではないか」「そうでない者はキリストを信じなかったという、ただそれだけで、ゆるされていないというのか。不公平ではないか」「本当にキリストだけが唯一の道なのだろうか」「独善的ではないか」「排他的ではないか」「あまりにも子供じみている」「教会学校の幼児クラスレベルではないか」「話がうますぎる」「20歳やそこらで真理を知ったなんて考えるのは傲慢ではないか」「大多数のインテリは聖書を誤りの無い神の言葉としてそのまま信じるなんて言っていないぞ」「救われていると称する人の多くは、大した教養も学歴もない人ばかりではないか」「天国とか地獄とか再臨とかサタンとかアダムとエバとかノアの箱舟とか、人が聞いたらどう思うだろうか」「馬鹿だと思われてもいいのか」「インテリだと思われたくないのか」「宗教気狂いになったと思われるぞ」等々。

 

その結果、あれほど喜び、誇りに思っていた、純粋な福音の真理を何となく恥ずかしく思うようになり、人間の思想や哲学でこねくり回して混ぜ物をするようになり、神の言葉とは相容れない、進化論、宗教多元主義(すべての宗教は真の神に通じるという説)、セミ・ペラギウス主義(半・自力救済説、神人協力救済説)、カトリック神学など、様々な思想の影響を受けるようになりました。その結果、「この世の人々と違っていて恥ずかしい」という思いからは解放され、周りのノンクリスチャンたちも、「お前は堅物でない、一味違った、物わかりのいいクリスチャンだ」と褒めてくれました。しかし、主イエスに対する純粋な感謝や憧れや忠誠心は色あせ、どんどん喜びは失せていきました。その代わりに高慢、怒り、憎しみ、情欲、疑惑、虚しさ、満たされなさ、孤独感、神経過敏、過剰な自意識、批判欲といったものが心に忍び込んで気ました。もちろん、一度本当に救われた者は決して滅びることは無いという堅忍の教理は聖書の真理ですから、完全に信仰を失うことからは守られ、「これは自分の本来あるべき姿ではない」との思いはいつも心の奥底からは離れませんでしたが、単純、純粋、率直な福音の真理から心が離れれば離れるほど、そこには茫漠とした不毛の地が広がっていることを、思い知るばかりでした。

 

そこから、混ぜ物のない純粋な福音の真理に立ち戻らされるまでには、神から多くの痛みや懲らしめを受けなければなりませんでした。そのような経験も主にあっては何かの役には立つでしょうが、それもまた良い、必要な経験であった、とまで言うつもりはありません。むしろ主イエスへの忠誠を貫く機会、証をたてる機会、天に宝を積む機会を多く無駄にし、主の聖名に恥をもたらすことを多くなしたことを後悔し、残念に思います。

 

ただ、「しくじり先生 俺みたいになるな!!」というテレビ番組ではありませんが、他の方々には、私の経験を他山の石としていただきたいと願います。この聖書という畑に信仰義認という宝を見出した方は、悪魔のあらゆる攻撃に抗ってしっかりと立ち、この宝を完全に掘り出すその日まで、つまり御国を受け継ぐその日まで、この畑をしっかりと守り続けなければなりません。聖書にもこのように書かれている通りです。

 

「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。(コロサイ人への手紙 1:23)」

 

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者でなく、信じていのちを保つ者です。(へブル人への手紙 10:35-39)」

 

「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ人への手紙 1:16)」

 

「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(ヨハネの黙示録 3:10)」

 

ただ、主イエス・キリストだけです。罪の赦しも、罪に打ち勝つ力も、神のみこころにかなった新しい心も、苦しみの時の慰めも助けも、生きる目的も、現在・過去・未来にわたる世界のあらゆる出来事に対する正しい裁きと決着も、新天新地における永遠のいのちの希望も、すべては主イエスキリストを通してのみ、神が与えてくださいます。私たちはどんな時も、世間一般の意見に屈することなく、信仰の目をもってこのお方を見つめ、このお方を信頼し、このお方に倣い、このお方を通して父なる神に絶えず祈ろうではありませんか。私たちを救うために死んでよみがえってくださった唯一のお方に、栄光がとこしえまでありますように。

 

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