札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

キリスト教問答

 

 

(友人との、LINEのやり取りからの抜粋です)

 

A 空港に着きました。

 

B わざわざ来てくれてありがとう。また来てくれよ。

A うん、ありがとう。みなさんによろしく。

B 聖書を読んでるそうだけど、「聴くドラマ聖書」 というアプリを アンドロイドのスマホならGoogle play で、iPhone なら app store で検索してインストールすると タブレットやスマホでどこでも新改訳聖書は読めるよ。再生ボタンを押せば聖書のすべての箇所で、声優による朗読も聴ける

A 了解、ありがとう
 アプリ、インストールしましたよ。

B そうか、すごくいいアプリだと思うんだよねー
  凄い時代になったものだ

A  ラジオドラマ的に音楽がはいるんだね

B  音楽は時々やり過ぎかなと感じる箇所もある笑

A  滝元明さんのパンフレットよみました。
神のために造られた。
神のために生きる。 
ということは、あまり考えたことありませんでした。

ダイジェストバイブル(聖書抜粋版)をプレゼントします! - 札幌キリスト聖餐教会のホームページ(ブログ)へようこそ (hatenablog.com)

 

B  アダムとエバの堕罪以来、創造者を無視して、自分を人生の目的として生きるようになった人間を、創造者との本来の関係に戻すための、救いの計画の器として、歴史の中でイスラエル民族が起こされ、導かれてきたというのが旧約聖書のテーマだね。


  そしてその民族から、預言され約束された救い主キリストが現れ、十字架の死と復活によって、信じる者の罪を赦して神の子供となし、神との本来の関係を回復して下さった。その救いの計画は、いつか再びキリストが雲に乗って再臨される時に全世界規模で完成する、とうのが新約聖書のテーマだ。

A  神がイスラエル民族を造ったのも神のためということかな?

B  神のためというのは、人間は神に従順であることを通して神の素晴らしさを体験する時に最も幸せになるので、人間のためでもある。
あと、イスラエル民族を作ったのは、イスラエルから出るメシアを通して世界中の民族が祝福されるためなので、世界のあらゆる民族のためでもある。
旧約聖書の創世記12章のアブラハムの召しに伴う祝福の約束に書かれている。

A  人間のためでもあるんだね

B  神は三位一体の方で、永遠の昔からご自身の内に愛の交わりを持っておられる。別に孤独な方では無く、何の欠けもない、満ち足りた方。別に何か不足があったから自分を満たすために宇宙や人間を創造されたわけではないので、神がなぜ宇宙を想像されたのかというのは、人間には理解し尽くすことのできない神秘と言えば神秘。
  別に何か不足があって寂しいから宇宙を創造されたわけではない。そういう意味では全面的に人間のため。
人間のためと言っても、キリストの十字架で提供された救いをあくまで拒んで最終的に滅びる人はいるので、全ての人間が救われる訳ではないけど。

A  神が宇宙を造ったということも、あまり考えたことなかった。

B  この宇宙がこのように存在している以上、永遠の始めから存在した究極のものがあったはず。突き詰めて考えれば、永遠の昔から、始めに物質と法則が存在して、あとは偶然の積み重ねでこの世界ができたか、物質を生み出し、物理法則を定めた永遠の人格的存在が存在するのか、二つに一つだよね。
  旧約聖書の初めには、「はじめに神が天と地を創造された」とある。

A  世界はすごく緻密に出来てると思います。

B  偶然生命が発生する確率というのは、プールの中に時計をバラバラにして投げ込んで掻き回したら時計が組み上がった、というのと同じくらいの確率だそうだ。

A  すごく解りやすい。

B  あと、宇宙には宇宙定数というものがいくつかある。それは例えば、光の速さとか、重力の大きさとか、何故かはわからないが、とにかくそう決まっているんだ、と言うしかない数値の事。例えば、光の速さはなぜ秒速30万キロメートルなんだ、100万キロとか500万キロとか、もっと他の速さでもいいだろう、と言っても、
  「知るか、とにかくこの宇宙はそういう風になっているんだよ」としか言いようがない値がいくつもこの宇宙にはあるわけだ。
  その宇宙定数が少しでも他の値だっただけで、生命の誕生は全く不可能になるそうだ。この宇宙の色々な値のダイヤルが生命の存在のために都合がいいようにすべて微調整されているとしか思えない程で、ファインチューニングというそうだ。
  例えば、重力定数が少しでも違っただけで、生命に必須の元素である炭素の発生は不可能になるそうだ。
  あまりに不思議なので、無神論学者の中には、多次元宇宙といって、本当は、宇宙定数が様々である宇宙がいくつもあって、わたしたちのいるこの宇宙はたまたま宇宙定数が生命にとって都合のよい、無数にある中の一つの宇宙だった、という無理矢理な仮説をたてている学者たちもいる。
  それくらい、生命の存在は、偶然ではあり得ない奇跡としか言えない神秘であることは、宗教が大嫌いな無神論学者でも認めている。

A  奇跡だね

B  初めからあった存在、永遠の昔から存在した究極の存在は何か、という問いからは、誰も逃れることはできないけれど、公平に先入観なく考えるなら、それは、偶然ではなく、知性を持った人格的存在だ、という答えにならざるを得ないと思う。
  ただ、生まれながらの人間は全て、アダムとエバ以来引き継いだ原罪により、自分が神でありたいという思いがあり、絶対的支配者であり、審判者である、神という存在を嫌うようになっている。その結果「神が宇宙を作ったなど、そんなことを認めてたまるか」という強い偏見があるから、結局、神などいない、全ては偶然の結果だ、という結論に持っていかざるを得ない。
  この世界という被造物をみれば、神の永遠の力と神性は明らかなので、神を認めない者は、故意にそうしているのであるから、最後の裁きの時に、弁解の余地はないと、新約聖書のローマ人への手紙1章に書かれている。

A  世界にたいして、神性というのは感じます。

B  その偉大な力と知性を持った創造主が、聖なる裁き主でもあって、全ての人がその前に立って、人生においてなした行い(言葉や思いや怠りも含めて)に基づいて裁かれる日が来る。しかし、子なる神、救い主イエスキリストの、罪の刑罰の身代わりの死と復活を自分のためのものとして信じる者は、有罪判決を受けて地獄に行くことがなく、天国での永遠のいのちが保証されている、というもが聖書の中心的メッセージだね。

A  キリスト教では行ないも大切なのかな?

B  救われるための手段として、すなわち、神の子供として受け入れられ、天国での永遠のいのちを与えられるための手段としては、行いは何の役に立たない。行いによって救われることのできる人は一人もいない。律法(神様のおきて)自体は良いものであるけれど、それは救いのための手段としてではなく、私たちの罪を示して、罪を自覚させ、救い主の必要性を悟らせ、私たちをキリストへと導くために与えられた。このあたりはキリスト教の理解について根本的なことで、特に新約のローマ人への手紙や、ガラテヤ人への手紙に詳しく書かれている。

  救いはただ恵みによる。恵みとは私たちの功績に基づいてではなく、神から一方的に与えられる恩恵の事。すなわち、救いはただ、イエスキリストが十字架で信じる者の罪の結果を全てその身におって死んでよみがえって下さったことを信じる信仰による。キリストの隣で十字架につけられていた二人の強盗のうちの一人が、悔い改めて、イエス様に、あなたが神の国の王座につかれる時には、私を思い出して下さい、と言った時、キリストは、あなたは今日、私と共にパラダイスに行く、とおっしゃったことがルカの福音書23章に記されている。


  ただし、キリストが神であり、救い主であることについての単なる知的同意だけではそれは信仰ではない。そのような信仰であれば、悪霊どもでさえも信じて、恐れおののいている、とヤコブの手紙に書かれている。18世紀にサンデマン主義という間違った異端の教えがイギリスで流行ったが、それは、キリストが救い主であり、死んでよみがえったことに知的に同意して、口で告白しさえすれば、その人の心がどうであろうとも、どんな生活をしようとも、救われているというもの。
  しかし、信仰は頭だけの同意でなく、それ以上のもの。聖書によれば、キリストを信じた者のうちには聖霊なる神が住まわれ、その人の心が新たにされる、とある。それは、罪を犯すことがなくなる、とか、誘惑との闘いが無くなるとか、悪い心が一切なくなる、という意味ではないが、しかし、心の一番深い奥底に、神を愛し、神を信じ、神に従い、神に喜ばれ、キリストに似た者になりたい、との願いが消えることのない、最も深い思いとして与えられる。
  だから、本当の信仰は必ず、行いとなって外に表れる。信じて罪を赦されているのだから、構わないからどんどん罪を犯そう、罪を犯してもなんとも思わない、という人がいるとしたら、その人は本当の信仰を持っておらず、聖霊によって生まれ変わってもいない。そのことが、新約のヤコブの手紙に書かれている。


  その意味で、律法(神のおきて)を行うことは救われるための手段では決して無いが、救われて聖霊によって生まれ変わった結果、救われた者の行いは、結果的に神のおきての精神と一致するようになって変えられていく、と言える。
  ちなみに旧約聖書の出エジプト記やレビ記に書かれている動物のいけにえなどの儀式的なおきては、イエスキリストを指し示すためのものであり、イエスキリストによって成就された今は、もう行う必要はない。

A  サンデマン主義は、もちろん知りませんでした。
なかなか極端な考え方だね。

B  簡単に言えば、行いによって救われることは誰にもできないし、救われるために行いをするのでは決してないが、恵みによって救われて、聖霊を受けて生まれ変わった結果、必然的に、良い行いをするようになる、と言える。
  もし行いによって救われようとするなら、神のすべての律法を一度も破ることなく、完璧に守り続けなければいけない。
  ただ一人それをなして下さった罪のない神のひとり子である救い主が、十字架でわたしたちの代わりに、罪の罰を父なる神から受けて死んで下さり、罪と死に打ち勝ってよみがえられた事を信じることによってのみ、救われる。
前にした説教なんで、読んでくれ

「ひとりは取られ、ひとりは残される」
 https://sapporochrist.hatenablog.com/entry/2021/08/13/101424

A  聖化というのが、信仰にともなう人格の変容なのかな?

B  そうだね。

 

新生=キリストを救い主として信じた者のうちに聖霊が住まわれ、永遠の命が与えられ、霊的に死んだ者から、霊的に生きた者とされること。



義認=キリストを信じて新生した者は、全ての人が立つことになる神の裁きの座で、キリストの十字架により、全ての罪がすでに赦されており、有罪判決を受けて地獄に行くことは決して無いことが保証されていること。ただし、その時に天国で受ける報いの程度は、生前の忠実さによって異なる。新生した者は全て、義認されている=未だ罪の誘惑との戦いがあり、ときには罪を犯すことがあっても、義と認められている。



聖化=人間はアダムの原罪を受け継ぐ者であるため、自分自身に都合のよい神を勝手に作り上げたり、神を自分の欲のために利用して上辺では敬ったりすることはあっても、心の底では真の神を嫌い憎む者であるが、新生して聖霊を受けた者は、人格の根底が変えられ、真の神を愛し慕い、神に従いたい、神によろばれたいと願う者へと変えられる。ただしし、天国へ行くまでは、罪の誘惑や罪との戦いや、罪を犯してしまうことが無くなるということは無い。また、聖化は段階があり、成長する。キリストを信じて神と共に歩むことによって、さらに罪からきよめられ、さらにキリストに似たものへと変えられていく。


これに対して、義認には段階や程度というものはない。キリストを信じて新生した者は皆、完全に赦され、絶対に捨てられることはなく、天国が100パーセント保証されている。

再臨=歴史の終わりに、キリストが再びこの地上に来られ、神の支配される神の国を実現されること。その前には、疫病や飢饉や地震や戦争や、自称キリスト、偽キリストの出現、獣=反キリスト=666と呼ばれる、クリスチャンを迫害する独裁者の出現、などが、ヨハネの黙示録や、福音書に記されているキリストの言葉によって預言されている。再臨のキリストは、クリスマスの誕生(初臨)のようなものではなく、雲に乗って天から降ってこられるという、全ての人が明瞭に見ることができる全世界的な、奇跡的なもの。キリストが再臨された時には、その事は誰にとっても一目瞭然で、他の人からキリストが再臨した事を、説明してもらう必要はない。

聖書によると、再臨後の神の国は、まずこの地球上で1000年間、千年王国というものが実現し、その後、この宇宙は過ぎ去り、新しい天と新しい地が実現する、という2段階のようだ、が、細かくなるので省略。


栄化=キリストの再臨の時、キリストを信じて新生している者は、罪から完全に解放され、もはや死ぬことも老いることも病むことも、傷つくこともない新しい栄光の身体をいただく。天国での生活というものは幽霊のような存在になって空中をフワフワ漂うことでは無く、新しい身体における明確な活動と仕事を伴うもの。

A  天国での新しい身体は、肉体ということ?

B  肉体ということ。
  福音書に記されているように、キリストが幽霊としてではなく、肉体をもってよみがえられたように、キリストを信じる者も新しい身体でよみがえる。
新約聖書のコリント人への手紙第1の15章35節からに書いてある。
  
  再臨のキリストが統治する千年王国もこの地球上で実現する。どこか別の星だとか霊界だとかの話ではない。
その後、よみ(キリストを信じないで死んだ者が、さばきを待つための場所)にいる全ての死者がよみがえってキリストの前に出て、最後の審判が行われ、すべての人が完全に正しい裁きを受ける事になる。その後、この天地は過ぎ去り、新天新地が到来する。

A  15章44節で、「自然の命の体」(新共同訳)って書いてるのが肉体の意味かな?

B  そうだね。新改訳では、血肉の体、と訳されていて、こちらの方が原語に近いと思う。そのあとの、御霊(みたま)の体、というのが、新しい復活の身体だね。
新共同訳は、翻訳グループに文学者とかが入っていて、意訳的で、解釈が入っている感じだね。共同訳だから、カトリックも入っているし。あまりオススメはしない。

A  御霊の身体は、精神じゃなくて復活した肉体なのね

B  そうだね。ただし、罪からも死からも病からも解放されている。
  ルカによる福音書24章36〜 に書かれている

A  36〜43節だね

 

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