札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

キリスト教問答 ~その2

 

前回の続きです。友人との、LINEのやり取りからの抜粋です)

 

A  イスカリオテのユダは、よっぽどお金が欲しかったのかな?

B  ユダは一行のお金の管理を任されていたけど、その中からお金を盗んでいたと記されているから、金銭的な貪欲もあっただろう。だけど、根本的な理由は、ユダが期待したメシア(ギリシャ語ではキリスト、すなわち救い主)像と、イエス様の言動がかけ離れていたために、イエス様に失望した、騙されたと思ったんだと思う。

いつかメシアが来る、そして地上にメシア王国を打ち立てて下さる、という預言は旧約聖書の全編にわたって散りばめられていて、旧約聖書の一大、というより最大のテーマであって、ユダヤ人であれば知らない人はおらず、皆がメシアを待ち望んでいた。

新約聖書では、ユダヤ人でない異邦の女から、道端の乞食に至るまで、色々な人が、イエス様のことを「ダビデの子よ」と呼んでいる。これは、「あなたは単なる預言者とか教師とかでは無くて、あなたこそ旧約聖書(ユダヤ人は旧約聖書とは呼ばないけど)に預言された救い主です。」と言っているわけだ。

「ダビデの子=救い主」というのは、キリストはエッサイの根=ダビデの子孫として来る、という預言がイザヤ書11章になされているから。エッサイというのはダビデの父の名。
マタイによる福音書1章にアブラハム〜ダビデ〜イエスの系図がズラズラと記されているのも、イエスこそ、アブラハムやダビデの子孫として来ると預言されていたメシアである事を、旧約聖書の預言を当然知っているユダヤ人読者に示すため。

事実、イエス様は預言されたメシアで、この地上にメシア王国(以前説明した千年王国)を打ち立ててくださる。しかし、その前に、その国民とされる者たちの罪のゆるしと、罪からの解放がなされなければならなかった。そうでなければ、それまで幾つも現れては、罪ゆえに滅んでいった人間の帝国と変わらないものが、また新たに現れるだけになってしまう。

罪の刑罰の身代わりに死んでくださり、信じる者を罪から解放して下さる救い主は、旧約聖書イザヤ書53章などに、はっきり預言されており、イエス様ご自身も、自分は罪の刑罰の身代わりに十字架で死に、信じる者たちを罪から救い出すために来た、と度々教えられたんだが(例:マタイ20:28)、この事は誰も理解しなかった(例:マタイ16:21-23,ルカ9:44ー45)。

「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と、イエス様がペテロを叱責されたように、彼らの頭の中には、あのローマ帝国をぶっ潰して、このイエス様が王になった暁には、自分がその右大臣、左大臣になって、、、といった、神の聖さと人間の罪の問題を抜きにした、本質的には今までの人間の帝国と変わらない、俗世的なメシア王国しか頭になかった。だから、信じる者を罪から救い出すために、身代わりに死んでよみがえるメシアなど、全く思いもよらず、理解できなかった。

だから、イエス様が十字架で死んでしまった時には、イエス様がご自分の十字架の死と三日目の復活を予告されていた事など(マタイ17:23、20:19他)誰も思い出さず、皆、意気消沈し絶望して、自分たちも投獄ないし処刑されるのではないかと、ユダヤ教の指導者達を恐れて隠れ潜んでいた。

しかし、弟子たちは、分からないなら分からないまま、理解できないなら理解できないまま、イエス様に叱責されながらも、イエス様に惹きつけられ、イエス様を信じてイエス様について行った結果、最後には彼らに復活のイエス様が現れて下さり、神の救いの計画の全てに目が開かれ、罪と死からの救いの福音を世界中に宣べ伝える使徒とされた。

それに対して、初めは喜んでイエス様に従っていたけれど、途中で「これは私達の期待するメシアとは違う」と失望して去っていった弟子たちも大勢いたことは、例えば、ヨハネの福音書6章などに書かれている。

ユダも、自分の罪に目を向けず、自分の罪を理解せず、あくまでも自分自身の期待する、都合の良いメシア像に固執し、目の前にいらっしゃる、神からのメシアを否定した結果、メシアを銀貨四十枚で売り渡す道を選んだ。また、それまでも外側からユダを誘惑し、イエス様から引き離そうとしていたサタンが、その時、ユダの内に入った結果だとも書かれている。(ルカ22:3)

 

A 途中で離れた弟子もいるんだね

 

B わかりやすいのはヨハネ6章66節かな。

2匹の魚と5つのパンによる五千人の給食という奇跡を見て、是非、王になって下さいと多くの人々が押しかけてきた。しかし、イエス様が、「なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と仰って、ご自身の身体こそがいのちのパンであり、信じる者の罪の赦しのために死んでよみがえること、死後の裁きと永遠のいのちのことなどを話されると、「これはひどい言葉だ、誰がこんな事を聞いていられようか」と言って多くの者が離れ去っていった、とある。

しかし、「あなたがたも離れて行きたいのか。」とのイエス様の問いかけに対して、「主よ、あなたを離れて誰のところへ行けるでしょうか。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。」とペテロが答えた、と書いてある。

A 王様的な統治者を求めた人もいたのかな?

 

B 人間の罪の問題の解決を抜きにした、世俗的な王様ということかな?

ほとんどの人がそうだったと思うよ。弟子たちも大した違いは無かった。俺たちの中で一番偉いのは誰か、とか議論し合っているし、ゼベタイの子ヤコブとヨハネのお母さんが(イエス様の母マリヤと親戚だったと言われている)、「あなたが王様になられた時は、私のこの二人の息子をぜひ右大臣と左大臣に」みたいなことをお願いしに来ていて、それを聞いた他の弟子たちが腹を立てたりしている。

イエス様が王様的な統治者どころか真の王である、という事自体は完全に真実。事実、預言通り、この地上に千年間、王国を打ち立てられる。その後、この宇宙は過ぎ去り、新天新地が到来する。このことは以前も話した新約聖書Ⅰコリント15章にも書かれている。キリストが治めるこの地上のメシア王国は、れっきとした聖書の預言であり、文字通り実現する。

問題は、旧約聖書のメシア預言を信じていた人たちの誰もが、自分の都合のいい部分だけを自分の都合のいいように信じていたこと。私たちは罪の赦しと罪の力からの解放を必要とする罪人であり、その王とは、王であると同時に、私たちの罪の問題を解決するために、罪の刑罰を身代わりに受けて死んでよみがえる、罪からの救い主である、という預言を、誰も理解していなかった、自己中心的な期待に目が曇らされていて、理解できなかったことだね。罪とか悔い改めとか裁きとか滅びとか地獄とか、耳障りな事を言わない、自分にとって都合のいい救い主、ってことだ。

私たちも、神の御霊によって自分の罪を悟らされ、キリストこそ罪からの救い主であることに目が開かれなければ、イエスが主であることを本当の意味で悟り、信じ告白する事はできないことが、Ⅰコリント12:3に記されている。

 

A 俺たちの中で、一番偉いのは誰かの議論は弟子たちがしてたの?

 

B そう。例えばルカ9:46~、22:24~

どうも一度だけではなかったようだね。

これに対して、イエス様は、子供を弟子たちの真ん中に立たせ、子供のように自分を低くする者が天の御国で一番偉いのだと答えられた。

また、私が仕えられるためではなく、多くの人を罪からあがなうために自分の命を捨てるために来たように、あなたがたの皆の先に立ちたいものは、皆に仕え、皆の足を洗う者となれ、と教えられた。

マタイ20:20~28他

 

A そのページ見てみるよ。

 

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