札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「主はわたしの羊飼い」 詩編 第23篇

 

エリザベス・ジェーン・ガードナー 「羊飼いダビデ」

 

 ダビデの賛歌

 

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

 

詩篇とは、旧約時代のイスラエルの民が、賛美、祈り、嘆願、感謝、罪の告白、苦悩の訴えなどをありのままに主の前に注ぎだし、それを詩にしたものをまとめ、編纂したものであり、イスラエルの民が主に礼拝を捧げるとき、楽器の伴奏と共にメロディをつけて歌われた。そのほとんどはイスラエルの王国時代(紀元前10世紀頃)から、バビロン捕囚後、エズラの時代(紀元前5世紀頃)までに書かれたものであり、また、その多くは、イスラエル第二代の王、ダビデ(紀元前10世紀)によるものであると考えられている。詩篇の中でも最も有名であり、古来最も愛唱されてきたこの詩から、ダビデの信仰に学び、倣っていこう。

まず、私たちは主の前でのダビデ王のへりくだりに注目したい。この詩篇を書いたとき、ダビデはイスラエルの頂点である王の位を手にしていた。権力においても、富においても、名誉においても、欠けることがなかった。しかし、彼はそのような自分を誇ることなく、自分自身を主なる神様に導かれる羊に過ぎない、と言っているのである。実際の羊は、弱く、愚かで、しかも頑固な生き物であり、羊飼いの守りと導きと世話がなくては生きていくことができない存在である。そしてダビデ王が自分のこれまでの歩みを振り返ったとき、自分が今受けている祝福は、決して自分自身の知恵や力や人徳によって勝ち取ったものなどではなく、主なる神が羊のように弱く愚かな私を愛し、守り導いてくださった結果だ、と告白しているのである。

次に、私たちはこの詩篇から、主なる神のご性質について学ぶことが出来る。まず、「主は私達に聖霊を賜い、勝利を与えてくださる方である」と御言葉は語っている(5節)。まだダビデが少年であった頃、イスラエルとペリシテとの戦いにおいて、ペリシテ側の代表戦士であった巨人ゴリアテに立ち向かおうとする者はイスラエル全軍のうちに一人もいなかったが、ダビデは生ける神の栄光を思う怒りの心に燃え、聖霊があたえた勇気と力に満たされ、石投げの一撃でゴリアテを倒し、イスラエルに勝利をもたらしたのであった。このように、私たち自身は弱く小さな者であっても、主の御名があがめられることを求め、主が力を与えてくださることを信じて、勇気をもって御言葉に従っていくなら、主は必ず私たちにも勝利を与えてくださるのである。

さらに、「主は私たちを憩いの水のほとりに伴われる」方である(2節)。羊にとって、自分を襲う獣の危険に並ぶ心配は、草や水、すなわち食物に不足することである。しかし、主はそのような、自分自身では食物を発見することの出来ない弱い羊を、憩いの水のほとりに導いてくださる羊飼いである、と御言葉は語っているのである。主イエス様は、「何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで思い煩うな」とお命じになった。羊が羊飼いを信頼するように、私たちもこの主なる神を信じて日々祈り、感謝し、御言葉に従っていくなら、主は必ず、私たちを憩いの水のほとりにともなわれるのである。

最後に、「主は、御自分の名にかけて私たちを正しい道に導かれる」方である。羊飼いがどれほど素晴らしい、頼りになる存在であっても、羊飼いとはぐれてしまっては意味がない。しかしその心配をする必要はない。主は御自身の聖なる名にかけて、私たちを誤った道から救い出し、正しい道に導く、と誓っておられるからである。ダビデが他人の妻を横取りし、さらにその夫を謀殺するという大きな罪を犯し、神から懲らしめを受けたように、私たちも、自分の罪を思い知らされ、神からの鞭を受けることがあるであろう。その導きは必ずしも、何の痛みも苦しみも無いものではない。しかし、その行き着く先は、天の御国で、「いつまでも、主の家に住まう」ことである。その祝福は、この世の命の死と共に消え去ってしまう、儚いこの世の富のようなものではない。「私はよい羊飼いである(ヨハネ10章)」と仰った救い主が私たちのために死に、よみがえり、私たちを神の子としてくださったのである。私たちは今日もこの方への信頼を新たにし、罪を悔い改め、この方の御言葉に聞き従っていこうではないか。

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