札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「恐れずただ信ぜよ」 ルカによる福音書 第8章49-56節

ガブリエル・フォン・マックス 「ヤイロの娘の蘇生」

 

イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。

しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。

それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。

人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。

人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。

イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。

するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。

両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。

 

 

 会堂管理人という、ユダヤ社会の中で非常に尊敬される、高い社会的地位を持った存在であったヤイロであったが、一目もはばからず、主イエスの前に駆け寄り、ひれ伏して、病気で死にかけている娘を癒してくださるように願った。主イエスは彼の求めに応じ、彼と共に彼の家へと向かわれたが、その途中で、長血という出血が止まらない病気で12年間も苦しんでいた一人の女が癒され、主イエスのお言葉に応じて主イエスの前に進み出て癒されたことを告白するという出来事が起こったのであった(43-48節)。

これは素晴らしい出来事であったが、しかし、ヤイロの立場から見れば、これはある意味で、予期せぬ不運な出来事であったと考えることも出来ただろう。彼の娘は重病で今にも死のうとしているのであり、一刻を争う事態である。この間にも時間は過ぎ去って行き、娘は死んでしまうかもしれない。主は私の娘を心にかけておられないのではないか、との思いも心によぎったかもしれない。そして、恐れていたとおり、ヤイロの家から使いが来て、「お嬢さんは亡くなりました」との知らせがもたらされたのである。

「主なる神の愛と力は信じられる。さらに、主が私に最善の御計画を持っておられることも信じる。しかし、他の人間あるいは偶然の出来事が、神と自分との間に割って入ってそれを妨害し、かき乱してしまうのではないか。」このような心配を持ったことはないだろうか。ヤイロもまた、この時、そのような恐れが現実になったと思ったかもしれない。しかし主イエスは、「残念ながら、予想外のアクシデントによって、あなたに対する私の計画は妨害されてしまった。あきらめなさい。」とは言われなかった。そうではなく、「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われたのである。

神にとって、「予想外のアクシデント」といったものは存在しない。一羽の雀ですらこのお方の許しなしには地に落ちることはなく(マタイ10:29)、また、このお方は全てのことを働かせて、信じる者のために益としてくださる益としてくださる(ローマ8:28)。私達の目には、予想外の不運な出来事と思われることであっても、神の目にはそうではない。神はそのことをも働かせて、御自身の栄光をあらわされ、神への私達の信頼は、より一層強く、深いものとなるのである。

ヤイロが全てを主イエスの前にさらけ出し、ひれ伏して全てを委ねたとき、すでに主イエスは彼の全てを受け止め、責任をもって引き受けて下さっていたのである。私達に求められているのは、「このようになるにちがいない」という予想が外れても動揺せず、私達の知恵にではなく、主イエス御自身に固く信頼することである。そうすれば、しばらくの忍耐の後、十字架によって罪と死の力に勝利されたお方によって、私達は必ず勝利を与えられるのである。

 

関連説教 「神は全てのことを支配しているか」

 

PVアクセスランキング にほんブログ村