札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

教理説教 「神の支配と選びの神秘」 ローマ人への手紙 第8章 28‐30節

 

「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙 8:28-30)」

 

 

聖書の言葉であることを知っていてかどうかは分かりませんが、最近では、クリスチャンでない人が、「神様は耐えられない試練に会わせることはなさらない」という言葉を口にしたり、本に書いたりするのを目にすることがしばしばあります。また、以前私は、本屋に行ったとき、新刊本の宣伝文句なのか、「もしあなたが神様に会えるとしたら、どんなお願いをしたいですか」というようなことが書かれたポスターを目にしました。神について深く考えた結果ではないでしょうが、こういった事は、ある暗黙の前提をもっています。それは、「もし神様がいるとすれば、当然、神様はこの私に好意をもってくれているはずだ。」という前提です。この暗黙の前提があるからこそ、「言うまでもなく、神様は私の味方であるはずだ。だから、私を耐えられない試練には会わせるはずはないし、私には神様にお願いをする権利があるはずだ」と、当然のように考えて疑いもしないわけです。

 

現代のカトリック、あるいは、聖書を権威ある誤りの無い神の言葉と認めない、リベラルなプロテスタントは、程度の差こそあれ、似たようなことを語る傾向があります。つまり、「あなたがクリスチャンであろうがなかろうが、イエスキリストを救い主と信じていようがいまいが、神は愛ですから、無条件であなたを愛してくださっていますよ。あなたがよっぽどの悪人でない限り、あなたを守り導いてくださっていますし、あなたの願いにも耳を傾けてくださいますよ。(さらに、言葉にはしませんが、暗黙のメッセージとして)そして、死後のことなど心配する必要はありませんよ。極悪人でもない限り、ほとんどの人は天国に行くのですから。」というわけです。

 

このような考え方は私たちの生まれながらの感性には気に入るため、吟味もせずに、「もちろんそうだろう、そうでなければならないはずだし、きっとそのはずだ」と考えたくなるのは自然なことです。しかし、その根拠を聖書から吟味もせずに、人間的な期待や願望や思い込みに、私たちの人生と、それに続く死後の永遠の運命の土台を据えてしまうことほど危険な事はありません。私たちは、私たちに影響を及ぼそうと雨のように毎日降り注いでくる、あらゆる思想、哲学、風俗、時代精神、流行、価値観、同調圧力、ほのめかし、などのすべてを、無警戒に受け入れるのではなく、その一つ一つを神の言葉である聖書によって吟味し、ふるいにかけ、そして、神の言葉に合致するものだけを、私たちの人生の土台として受け入れなければなりません。

 

聖書は、神は全人類の父である、とは語っていません。神はただ、イエスキリストの死と復活が自分を罪から救うためであったことを信じ、悔い改め、内に聖霊に住んでいただくことによって新しい心をいただいた者、救われた者、すなわち真のクリスチャンの父なのです。もちろん、神が全世界の創り主であり、支配者であられるからには、神はクリスチャン以外の人々には全く関わりを持たず、ただ放っておかれるだけである、というような事は絶対にありません。旧約聖書の預言書にも、異邦の諸国に関して神が目を留めておられることが書かれているように、ノンクリスチャンの世界であろうと、神が善人も悪人も同列に扱われるなどということは絶対にありません。また、キリストを信じずに死んだ者は一人の例外もなく、もれなく地獄に行くのだというような考えは聖書を超えた極端というものでしょう。こういった種の事柄、例えば、早逝した乳幼児の救いや、キリストの福音を聞いたことの無い人々の最終的な救いといった、聖書に明瞭に書かれていない問題については、私たちは、完全に公正な方である全知全能の神の最終的な裁きに、安んじて全てをゆだねてよいのであり、またそうしなければなりません。神の御言葉に、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。(申命記29:29)」とある通りです。

 

しかしながら、同時に、私たちは、聖書に明瞭に記されている事柄に対しては、それがどれほど受け入れがたい、反発を感じるような記述だろうと、水増しをしたり、事をあいまいにしたりすることなく、へりくだって真正面から受け入れなければなりません。聖書が明瞭に語っているにもかかわらず、私たちが受け入れるのを好まない事柄とは何でしょうか。それは、全ての人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっているということ(ローマ3:23)、神に対して死んだ者となっており(エペソ2:1)、神を知ることが出来ず、知ろうともしたがらないということ(Ⅰコリント2:14)、生まれながらに御怒りを受けるべき者であるということ(エペソ2:3)、神の恵みと赦しの契約については他国人であること(エペソ2:11-12)、救われる道はただ一つであり、イエスキリストを信じる道しかないこと(使徒4:12)。もしイエスキリストを信じなければ、罪の中に死ぬのだということ(ヨハネ8:24)、信じない者には神の怒りがその人の上にとどまり(ヨハネ3:36)、罪がゆるされないままで死後の裁きの座に立たなければならないということ(Ⅱテサロニケ1:8―9)。そして、人の最終的な行き先は永遠の天国と永遠の地獄のどちらかしか無い(マタイ25:46)、ということです。

 

これに対して、イエスキリストは神のひとり子、救い主であり、十字架で私の罪の刑罰を代わりに受けて死に、三日目によみがえって下さったのだ、と本当に信じているのなら、その人の内には神の聖霊が住んでおられます(ローマ8:9)。その人は、神によって新しく生まれており(Ⅰペテロ1:3)、もはや他国人ではなく、神の家族であり、神の子供です(エペソ2:19)。その人の全ての罪は完全にゆるされています(エペソ1:7)。永遠のいのちをいただいた結果、もはや滅びることは絶対になく、天国行きが保証されています(ヨハネ3:18)。神がその人の味方であり(ローマ8:31)、神は決してその人を見捨てることなく(へブル13:5)、この地上の人生においても必要な物はすべて備えられます(ピリピ4:19)。神はその人を耐えられない試練に会わせることは決してなさいません(Ⅰコリント10:13)。その人に起こる全てのことは相働いて益となり(ローマ8:28)、神の力によって、罪からきよめられ、キリストにより似た姿、品性へと日々変えられていくことが約束されています(Ⅱコリント3:18)。この世においてはどんなに無名で、称賛されることの無い平凡なわざであろうと、神のためになされたその人の労苦は決して無駄にはならず(Ⅰコリント15:58)、永遠の天国において、この地上のいかなる富も比較にならない永遠の報酬によって、豊かに報いられます(Ⅱコリント5:10)。

 

つまり、聖書に記された数多くの祝福の約束は、全ての人に無差別に与えられたものではありません。それは、悔い改めて罪赦され、神の子供とされた者、この地上にではなく、永遠の天国に故郷を持つ者、自分の願いではなく、神の御心がなされるようにと願う者、自分の栄光ではなく、神の栄光が現わされるようにと願う者、生まれながらの欲望とは全く違った、このような新しい願いと心を、聖霊によって与えられた者、すなわち真のクリスチャンに与えられた約束であり、そうでない者に与えられた約束ではありません。

 

聖書がキリストを信じない者に対して語っているメッセージは根本的にはただ一つしかありません。「悔い改めてイエスキリストを信じよ。そうすれば救われるが、さもなければ滅びる。」というメッセージがそれです。現代においてはこのことを曖昧にしようとする、強い傾向がみられますが、聖書によれば、クリスチャンであるか、クリスチャンでないか、ということは、それほどまでに大きな違いがあるのです。それは、他のいかなる相違も、人がクリスチャンであるかないかというこの相違に比べれば、全く取るに足らない、と断言できるほどの相違です。それは死といのち(ヨハネ5:24)、闇と光(Ⅰペテロ2:9)、罪の奴隷と義の奴隷(ローマ6:17-18)、アダムに属する者とキリストに属する者(ローマ5:14―15)、との違いです。

 

冒頭の聖句(ローマ8:28-30)は、クリスチャンに与えられた絶大な恵みとは何であるのか、その本質を私たちに教えてくれる、福音の精髄とも言える聖句です。すなわち、神の永遠の御計画は、私たちが罪から解放されて、キリストに似た者と変えられ、キリストが永遠の昔から、父なる神との間に持っておられる交わりに、私たちもあずかるようになるということなのです(8:29)。それこそが、クリスチャンの喜び、また天国の喜びの本質なのです。神はそのために、イエスキリストを信じる私たちを義と認めてくださいました(8:30)。すなわち、キリストを信じる私たちがどれほど酷い、またどれほど多くの罪を今までに犯してきた者であろうと、また未来にこれから犯す者であっても、その全ての罪を帳消しにして、「義しい者」「罪の無い者」と宣言してくださいました。「義と認める」とはそういうことです。神は何の犠牲も受けずに、ただ罪を見過ごしにできるようなお方ではありません。主キリストが、キリストを信じる私たちのすべての罪を負って、神の刑罰を身代わりに受け、十字架で死んでくださったからこそ、神はそうすることがおできになったのです。

 

神はさらに、義と認めた私たちを、神との永遠の交わりを喜び楽しむ者としてくださいました。それが完全に実現するのは天国においてですが、私たちがそのような者とされることは絶対確実な事であり、その確実さが「栄光をお与えになりました(8:30)」という過去形によって表されています。そして私たちに起こるすべての事は、この目的のためにこそ、相働いて益となるのです。それは何でも私たちの願い通りになるとか、私たちにとって都合の良いことだけが次々と起こるという意味ではありません。むしろ、いかに私たちの願いに反する、予期せぬ困難が起ころうとも、それが病であろうと、また、経済的困窮、孤独、災害、疫病、迫害、その他いかなる事であろうとも、それは神の完全な御計画に従って私たちの永遠の益を増し加えるために起こることなのです。それゆえ、私たちはそれら全てに打ち勝つ者となるでしょう(8:35-37)。また、私たちに何が起ころうと、それらは全て、私たちの内に働いて、私たちをさらにへりくだらせ、さらに神に縋りつかせ、さらに神に信頼させ、さらにキリストに似た者となし、天国での私たちの永遠の栄光を増し加えることになるでしょう(Ⅱコリント4:17)。それは神がそのように計画されたからであり、またそのように約束しておられるからです。

 

さらに驚くべきことには、私たちがキリストを信じて、この神の御計画の内に招き入れられたことですら、私たちから出たことではなく、神の永遠の御計画によるものであったことが明確に記されています。私たちは、神を信じる事を選んだのは私たち自身であると考えがちですが、神の永遠の御計画による選びと召しが無ければ決して信じることはできないことが、主イエスの御言葉を含む様々な個所で示されており(マタイ15:13、マタイ16:17、ヨハネ6:37,44,65,66、ヨハネ15:16、ローマ8:28‐30、エペソ1:3-14、使徒13:48,Ⅱテサロニケ13,14、Ⅱテモテ1:9-10、黙示13:8))、この聖句もその一つです。「神のご計画にしたがって召された人々」「予め知っておられる人々を御子のかたちと同じ姿に予め定められた」「予め定めた人々をさらに召し」といった言葉に、神の予定と選びがはっきりと示されています。

 

この事は私たちに、私たちのちっぽけな理性では計り知れない神の神秘に対する畏敬の念を起こさせると同時に、真の安心と安らぎを与えてくれます。神がどんなに素晴らしい御計画を私たちのために用意して下さっていようとも、それが実現するかどうかは最終的には人間次第なのであれば、そこには平安も安らぎもありません。どんなに素晴らしい計画であろうと、それは絵に描いた餅であり、それはまず間違いなく挫折し、実現しないでしょう。しかし感謝なことに、聖書によれば、神の御計画の実現は、人間によって左右されはしません。私たちの理性を遥かに超えた神秘ですが、神は人間に意志による選択と責任をお与えになりながら、同時に人間を支配して、神の定めた限界を超えさせず、その御心を行わせ、ご自分の御計画を実現させることが出来るのです。だからこそ、神が予め定められた最善の御計画は必ず実現するのです。あなたが信じて救われたのは、あなたがまず神を信じる事を選んだからではありません。むしろこの世界が創造される永遠の昔から、神がそのご計画の内に、あなたを予め選んで、召してくださったからこそ、あなたが神を信じるようになったのです。そして神は一度お始めになったこの御計画を必ず完成なさいます。神の御計画に従って信じるようになり、神の御計画に従って義と認められたあなたは、神の御計画に従って起きるすべての出来事を通して練りきよめられ、神の御計画に従ってキリストに似た者へと作り変えられ、神の御計画に従って天国で永遠の栄光を頂くことになるのです。それは神が永遠の昔からそのように計画し、そのようにお定めになったからであり、神の御計画は必ず実現するからです。

 

私たちはただ神の恵みによって救われました。しかし、神の恵みとは、単に神は寛大な方で、キリストの犠牲ゆえに、私たちがどれだけ罪を犯そうとも赦してくださる、というだけのことではありません。神の恵みとは、それよりもはるかに能動的で、力強いものです。神の恵みは、私たちのあらゆる罪や弱さをものともせず、私たちを選び、私たちに働きかけ、私たちに信じさせ、私たちを罪からきよめ、ついには私たちを永遠の栄光に導き入れて止まないものです。それは、堕落した私たちの意志をも作り変えて、聖なる意志となし、神の御心をなさしめる、世界最強の力です。

 

もしそうでなく、一度救われたあなたが最終的に天国に行けるかどうかは、神の助力があるにせよ、究極的にはあなた次第であり、あなたが死ぬ時まで自分の力で信仰を保ち続けるかどうかにかかっているのであれば、信仰告白をして救われた後にクリスチャンとしてこの世に生き続けることは危険極まりない賭けであり、むしろ信仰を持ったらすぐにこの世を去って確実に天国に行くのが最も安心なことだ、ということになるでしょう。そんな結論はばかげたことですが、神の選びと予定と支配と堅忍を信じない限り、そのような結論は避けられません。自らの罪と弱さを知る者、また、深く首尾一貫して考え抜く者は、神の選びと予定と支配と堅忍を、聖書が語る通りに素直に信じる時にこそ、安らぎを見出すのです。

 

しかしながら、今まで見てきたように、聖書に従って、キリストを信じる事の絶大な価値と、予め神に選ばれていない者は決してキリストを信じることはできない(というより、信じようとはしない)、ということを共に信じるのであれば、そこには当然、「神は不公平な方ではないのか」という疑問が立ち現われてくることになります。この事が難問であることは誰にも否定はできません。この難問を回避するために、「キリストを信じる事の絶大な価値」と「神の予定と選び」のどちらかを否定する神学が生まれて来ました。前者を否定する事から、「キリストを信じるだけでは救われない。信仰に加えて、善い行いの功績が無ければ救われない。」というカトリック的な、人間の功績に基づく救済論や、「キリストを信じるかどうかは重要ではない、神は道徳的に生きようと努力する者は皆救ってくださる。」という普遍的救済論が生まれて来ました。また、後者を否定することから、「神が予め誰かを救われるよう選び定めておられるということは無い。信じて救われるかどうかを決めるのはあくまで人間自身である。神はただ、時間を超越しておられる方であるがゆえに、誰が信じるようになるかを予知することがお出来になるというだけなのだ。」というアルミニウス主義が生まれて来ました。むしろ、現代においては、聖書を神の言葉と信じる、真に救われたクリスチャンであっても、アルミニウス主義に立つ者が多数派であり、カルヴァン主義に立って選びと予定を信じる者はむしろ少数派であると言えるでしょう。

 

しかしながら、真理とは時代とともに移り変わったり、ましてや多数決で決まったりするものではありません。神の絶対的主権による選びと予定は、聖書全体を貫く明確な真理であって、特に、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙の中心的な教えでもあります。聖書の最高峰の一つと言われる、このローマ8章ですら、神の選びと予定と支配を信じないのなら、その驚異と神秘、慰めと励ましに満ちた内容は全て骨抜きにされてしまい、ただ、「自分の力で、死ぬ時まで信仰を保ち続ければ天国に行ける。ただし、そのようになる絶対的な保証はどこにもない」と言っているだけの事になるでしょう。

 

神の選びを信じるなら、神は不公平な方であるように思われる、という問題は確かに難問ですが、選びを否定してもこの問題は無くなりません。仮に選びが無かったとしても、一人一人の人間が生まれ育つ環境は同一ではなく、福音を信じる上で、環境による有利不利が存在することは、誰にも否定できないからです。ローマ人への手紙9章はこの問題について、議論したり説得したりしようとはせず、ただ、「神に不正があるなどということは絶対にない(14)」「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ(15)」「人よ、神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか(20)」「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも、作る権利を持っていないのでしょうか(21)」と、ただ神の主権と、人間には探り極めることを許されていない神秘の領域があるということを語るのみです。私たちに求められているのは、三位一体と同じく、神の聖なる神秘に立ち入ってそれを探り極めようとすることではなく、ただへり下って、聖書に啓示された神秘を神秘のままに信じ、受け入れることだけです。この問題に関して、内村鑑三は、聖書に記されている通りに、選びと予定の教理を信じて、「神、かくなし給えり。我、その理由を知らず。」と言っています。また、アウグスティヌスもこの教理に反対する者を非難して、「聖書の導くところに、われらは従えば良いのだ」と言いました。カルヴァンはこの教理を信じた代表者のように言われていますが、彼だけでなく、ルター、ツウィングリ、ホイットフィールド、エドワーズ、スポルジョン、ライルらもこの教理を信じました。そもそも宗教改革以後、19世紀の中頃まで、聖書を神の言葉と信じる福音的なプロテスタントの大多数の牧師たちは、いずれも大胆にこの教理を説いてきたのです。現代では少数派になったものの、D・M・ロイドジョンズやJ・I・パッカーやジョン・パイパーといった偉大な説教者、教師たちもこの教理を大胆に説いています。

 

 私たちが、「こうでなければならないはずだ」という自分の前提や、「こうであってほしい」という自分の希望を聖書に読み込むのではなく、また、自分の気に入った所を選び出して信じるのではなく、聖書の全体をそのあるがままに読むならば、それまで見ていなかった、神の別の面が見えてくることでしょう。すなわち、私たちが口に手を当て(ヨブ記40:4)、靴を脱いで(出エジプト記3:5)、畏敬の念に圧倒されてその御前にひれ伏すしかない(イザヤ書6:1-5)、聖なる全能者、絶対者、支配者をそこに見いだすことでしょう。そして、私たちは、この方の永遠の御心の中に、予め自分が覚えられ、その永遠の御計画の中に、予め自分が選ばれていたことを知って、ただただ、その驚異に圧倒されるのです。神の揺るがない御計画と御支配を確信することによって、私たちはより大胆で信頼に満ちたものとなり、同時に、神の御心に対して謙遜な者、喜んで神の最善の御計画に自分をゆだね、ささげ、従う者となるのです。十戒の第一戒は「私の他に何者をも神としてはならない」であり、主の祈りの冒頭は「あなたの御名が聖とされますように」です。私たちが神を神のままに、その聖を聖のままに、その全能を全能のままに信じ、受け入れ、あがめることができますように。そのようにして私たちの信頼と賛美と謙遜と従順が、より増し加えられますようにと、心から祈ろうではありませんか。

 

推薦図書

「ロイドジョンズ ローマ書講解」 渡部謙一訳 いのちのことば社 

 

 

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