札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

教理説教 「彼らは決して滅びることがなく ―聖徒の堅忍とは―」  ヨハネによる福音書 10章 28-29節  エペソ人への手紙 1章1‐4節

 

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネによる福音書 10章28‐29節)」

 

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙 1章1‐4節)

 

19世紀半ばにカリフォルニアで起こったゴールドラッシュについて、映画やドラマで題材にされることがあります。そこに莫大な金が埋まっていることを知っていたら、スペインやメキシコはカリフォルニアを手放さなかっただろうとよく言われます。それには誰もが同意するでしょうが、私たちもまた、それ以上に愚かなことをしていないでしょうか。つまり、私たちもまた、この聖書という本に隠された宝に対して、同じようなふるまいをしないように、心しなければなりません。

 

聖書に隠された最大の宝、それはただ信仰のみによって救われるという、信仰義認の真理です。「罪深い私たちが、どのようにして聖にして義なる神の前に、恐れなく立つことが出来るのか。」これこそが聖書の提起する最大の問題です。そして聖書の回答はこれです。「それはただ、神のひとり子なるイエスキリストの、身代わりの死と復活を信じる信仰のみによる。主イエスキリストがあなたの罪の刑罰を、あなたの身代わりに十字架上で受けて死んでくださった。そして、父なる神に完全に受け入れられ、罪と死に完全に勝利した。そのしるしとして三日目によみがえって下さった。このことを信じる以外に、全ての罪責がゆるされる道、神の子供とされる道、天国での永遠のいのちが与えられる道はない。他の道を行くのなら、罪に対する恐るべき裁きを免れることは出来ない。」この真理を見出し、信じ、自分のものとしていないのであれば、生涯をかけて、暗記するほど聖書を読み、世界中の書物を読破するほどの学識と熱意をもって聖書を研究しようと、何の意味もありません。多くの者が、そのように虚しく、無駄に聖書を読んできました。善行を積み、道徳的に向上することによって救われるとする行為義認的な聖書の読み方も、自己を無にして心の内に住む神と一つになることによって救われるとする神秘主義的な聖書の読み方も、宗教的な部分を無視した、理想社会の実現や道徳的な生き方の指南書としての聖書の読み方も、カトリック教会に所属して聖職者から儀式(サクラメント・秘跡)を受けることによって救われるというカトリック教会の主張も、いずれも惑わしの道、偽りの道であり、救いへと続く道ではありません。聖書に記された救いの道はただ一つ、「神のひとり子があなたの罪の身代わりに死んでよみがえられた」このことを信じることによって、無償で罪の赦しと永遠のいのちをいただく道、ただ一つです。

 

この、信仰義認の真理こそ、聖書に隠された宝のうち、最も本質的な核心であり、最大、最高、最重要のものです。しかしながら聖書に隠された宝とはそれだけではないことを私たちは知るべきです。へブル人への手紙にも、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。(6:2-3)」とある通りです。私たちは、不信仰や怠惰によって、神がご自分の子供たちのために用意して下さった宝の一つたりとも、ないがしろにして受け損なうようなことがないように、勤勉に熱心に聖書を読み、学び、そこに記された正しい教理の全てを信じる者とならなければなりません。

 

現代において多くのクリスチャンに知られず、しばしば公然と否定されることもある真理の一つが、堅忍(聖徒の堅忍・聖徒の最終的堅忍・perseverance of the saints)の教理です。信仰義認の教理を深く理解し、そこに堅く立っている真のクリスチャンであっても、この堅忍の教理について知らず、あるいは知っていても信じていないということがしばしばあります。堅忍の教理とは何でしょうか。それは、「ひとたび本当に救われた真のクリスチャンは、決して信仰を失って滅びることはない。神の主権的支配のうちに守られ、神のもとに召される時まで必ず信仰を保ち続け、確実に天国に到達する。」という教理です。注意していただきたいのは、これは、「死の瞬間まで信仰を保ち続けるなら必ず救われる」という、救いの確信の教理とは別のものだということです。もちろん、救いの確信の教理も確かにその通りではありますが、この教理が言っているのはそれとは別の事で、要するに「真のクリスチャンは、信仰を失うことから絶対的に守られる。ひとたび本当に救われた者は、死んで神のもとへ召されるその瞬間まで、信仰を失うことは決してない。」ということなのです。

 

この教理を正しく理解するためには、そもそも、本当に救われた、真のクリスチャンとはどのような者であるのかを、正しく知る必要があります。18世紀イギリスで「サンデマン主義」という偽りの教えが人気を博したことがありますが、その内容は現代においても無関係ではありません。これは「ただ口で告白しさえすれば救われる主義」「ただ知的に同意しさえすれば救われる主義」と言えば分かりやすいでしょう。聖書には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)」とありますが、ただこの御言葉だけを、前後関係からも、聖書全体の文脈からも切り離して解釈して、「イエスの贖罪の死と復活に知的に同意し、口で告白しさえすれば救われる」とする異端的教えです。しかし、知的同意だけの信仰であれば、悪霊どももそう信じて身震いしている、とヤコブ書には書いてあります(2:19)。また、バプテスマを受けて教会の正会員となっていることは、真に救われたクリスチャンであることの保証でもしるしでもありません。アメリカや韓国などでは、進学や就職や結婚など、社会的に有利な人脈を得るために洗礼を受けて教会のメンバーとなる人はいくらでもいるそうです。日本ではそういったケースはそう多くはないかもしれませんが、全く無いとは言えません。私も不純な目的での洗礼の依頼を受けたことは何度かあります。(もちろんお断りしましたが。)また、単に、親がクリスチャンであるからとか、道徳的な次元で聖書の教えに共感しているからとか、神学校や大学の神学部を出たからとか、文化や哲学や宗教学の次元で聖書に興味を持ち研究しているからとか、イエスキリストに共感し尊敬しているから、などといった理由で、自分がクリスチャンであると思い込み、そう公言している人々もたくさんいます。彼らはそもそも救われておらず、神の前で義認を受けていません。堅忍の教理とはあくまで本当に救われた者、すなわち「聖徒の堅忍」の教理であって、このような人々とは、何の関係もない教理です。

 

 それでは、本当に救われた、真のクリスチャンのしるしとは何でしょうか。主イエス様は、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」とおっしゃいました(ヨハネ3:5)。また、エペソ人への手紙1章には、「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。(1:13-14)」とあります。ローマ人への手紙8章にも「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。(8:15)」とあります。他にも沢山の聖書個所を挙げることができますが、御霊によって新生し、新しい心と生き方をいただいたことこそ、本当に救われた真のクリスチャンであることのしるしなのです。これは、あなたは奇跡的な体験をしたことがあるかとか、異言を語ることができるかとか、そのようなことを言っているのではありません。そのような体験は現代においても確かに存在し、私も毎日異言で祈りますが、それが救いのしるしなのではありません。聖書によれば、御霊によって新しく生まれたしるしとは以下のようなものです。御霊によって新しく生まれた者は、父なる神と主イエスを愛し、あこがれ、信頼し、忠誠を尽くし、従いたいと願うようになります。地上のものを尊び、求めるのではなく、天の故郷にあるものを尊び、求めるようになります。何度も罪を犯すことがあるかもしれませんが、何のやましさも咎めも後悔もなく、平然と、当然の事として罪を犯し続けることを喜ぶような事はありません。むしろ、罪を犯すたびにそれを悲しみ、悔い改めて神に告白し、再び神と共に歩み始めます。また、誤りの無い神の言葉である聖書の権威を認め、人間の教えやこの世の価値観によってではなく、聖書の言葉によって善悪を判断し、それに従って生きようとするようになります。また、聖書の御言葉を読みたい、祈りたいという願望や促しを心の中にしばしば感じるようになります。また、神を愛することを知らない、世的な交わりよりも、神を愛する兄弟姉妹たちとの交わりを喜び、好むようになります。また、世の罪と不信仰とけがれに対して敏感になり、それらのものから自分をきよく守ろうとするようになります。御霊によって新生した、神の子供たちの特徴については他にも記されていますが、一言で言えば、神を愛し、神を信じ、神に従って、天国を目指して生きて行きたいという願いが、消し去ることのできない、心の奥底の根底にある思いとして、与えられるのです。そしてヤコブ書に記されているように、そのような最も深い次元における心の変化、願望の変化は、遅かれ早かれ、また多かれ少なかれ、行いと生活と生き方の変化として必ず現れることになります。あなたの心の最も深くにある願いは、どのようなものでしょうか。生まれながらの肉による願いでしょうか、それとも御霊による新しい願いでしょうか。これは全てのクリスチャンが誤魔化さずに直面すべき、極めて重要な問いです。真のクリスチャンであっても、この地上にいる間は罪深い肉の思いは残っていますが、しかし、もし心の最も深くにある本当の願いが、そのような新しい御霊の思いであるのなら、あなたは御霊によって新しく生まれており、神の子とされ、永遠のいのちが与えられている、幸いな人です。御霊によって新しく生まれる事なしに、生まれながらの人間の内からは、決してそのような思いは出てこないからです。しかし、もしそうでないのであれば、神が聖霊によってあなたを新しく生まれ変わらせて下さり、そのような思いを与えてくださるように、へりくだって真剣に祈り続けるべきです。そうしなければ、あなたは表面的に教会に所属しているだけで、自分で自分をクリスチャンと思い込んでいる、イスカリオテのユダや魔術師シモンやデマスのような似非クリスチャンに過ぎず、その信仰はまがい物であることが、彼らの場合と同じように、遅かれ早かれ、明らかにされるからです。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです(へブル6:4-6)」といった御言葉は、一度救われた人が信仰を失って滅びることがあると語っているのではなく、そのような、御霊による新生を伴わない、形だけの信仰告白者、名ばかりのクリスチャンのことを言っているのです。

 

勿論、真のクリスチャンといえども、いつも百パーセント、神を愛する思いだけに満たされているとか、世的な思いになることが全くないとか、罪や疑いに陥ることが決してないとか、そのようなことは決してありません。どんなに成熟したクリスチャンであっても、そのような人は一人もいません。アブラハムは恐れから二度も妻について卑怯な偽りを語りました。ヤコブは父と兄を騙しました。モーセは怒って軽率な言葉を語りました。ダビデは不信仰によってサウルを恐れて異邦人の王のもとに保護を求め、また、怠惰と情欲から、姦淫と謀殺の罪を犯しました。エリヤは恐れと絶望に陥って神に文句を言いました。ヒゼキヤは高ぶり、自分の富を誇って愚かなことをしました。弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げました。これらはみな、キリスト者が転落することが有り得るという明瞭な実例です。しかし、信仰者は決して、完全に、決定的に、最終的に転落することはありません。たとい痛烈にへりくだらされ、打ちひしがれはしても、彼らは決してその恵みを全く失ってしまうことはありませんでした。彼らはみな、悔い改めへと導かれ、その転落から立ち上がり、神と共に歩くその歩みを再び始めたのです。そして、この堅忍の恵みは、聖書の登場人物や、歴史上有名な、傑出したクリスチャンだけのものではありません。どんなに信仰の小さい、気弱で小心で疑り深い、たった今主イエスを信じて救われたばかりの、最も小さいクリスチャンであろうと、堅忍の教理は当てはまります。本当に自分の罪を知り、悔い改めて、聖霊によって新しく生まれた者は、一人たりとも信仰を失うことなく、天に召される時まで、神の支配の内にその信仰は保たれるのです。このことは、数多くの聖句によって明確に保証されています。以下に挙げる聖句はその一部に過ぎません。

 

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28、29)。

 

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ 1:1‐4)

 

「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8:28-29)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:35-39)。

「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです」(Iヨハネ2:19)。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。

「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:26)。

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(ヘブル10:14)。

「罪はあなたがたを支配することがないからです」(ローマ6:14)。

「神は私たちを世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:5)

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。(エペソ1:14)」

「主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます」(Iコリント1:8)。

「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」(Iペテロ1:5)。

「イエス・キリストのために守られている、召された方々へ」(ユダ1)。

「主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます」(IIテモテ4:18)。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」(Iテサロニケ5:23、24)。

「主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」(IIテサ3:3)。

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(Iコリント10:13)。

「神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」(へブル6:17)

「そして、永遠のいのちに定められていた人たちはみな、信仰にはいった。」(使徒13:48)

「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」(ヨハネ6:39)。

「神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる』」(IIテモテ2:19)。

「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ8:30)。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」(Iテサロニケ5:9)。

「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです」(IIテサロニケ2:13)。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」

「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召して下さった方が、(ガラテヤ1:15)」

「神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器」(ローマ9:23)。

「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのためにために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。(ローマ11:4-5)

「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11:29)。

「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:25)。

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に」(ユダ24)。

「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名の書き記されていない者はみな、彼(反キリスト)を拝むようになる。(黙示13:8)」

「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(IIテモテ1:12)。

「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)。

「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください」(ヨハネ17:11)。

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハネ17:15)。

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(ローマ5:10)。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)。

「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、----その教えは真理であって偽りではありません。----また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです」(Iヨハネ2:27)。

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」(ヘブル13:5)。

 

これほど多くの聖句によって明確に語られているにもかかわらず、現代においてこの堅忍の教理が信じられず、語られなくなった根本的な原因は、19世紀以降、真に救われたクリスチャンの間でも、アルミニウス主義の考え方が広く受け入れられ、主流になったことにあります。アルミニウス主義を受け入れ、その土台に立っても、救われた真のクリスチャンであることはもちろん可能です。しかし、以前にもお話ししましたが、アルミニウス主義の出発点は、「こうでなければならない筈だ」という人間の理性であり、聖書をありのままに読んだ結果ではありません。アルミニウス主義とは、要するに、「人間の自由意志は神の支配から独立しているという考え方」であり、その当然の結果として「神の選びと予定と摂理的支配を認めない考え方」のことです。実に多くの聖書個所で、「救われた者は、世の始まる前から、救われるようにと選ばれていたゆえに、福音を信じることが出来たのだ。」という教理が示されているにもかかわらず(エペソ1:4-5など)、アルミニウス主義はそれを文字通りには認めず、骨抜きにして解釈します。それは聖書をありのままに読んだ結果、そうなったというのではなく、人間の前提と先入観を読み込んでいる故です。アルミニウス主義においては、「そのような事はあまりに不公平であり、不条理である。神は誰が救われるかを、予め選び定めておられたのではなく、誰が信じるようになるかを、予知しておられただけなのだ。神がまず救われる人間を選んだのではなく、神は誰が信じるようになるかを予知され、信じる者を救いに選ばれたのだ。救われるかどうかの究極的、決定的要因は神の選びではなく、福音を信じるか拒むかを選ぶ、人間本人の自由意志なのだ。」と考えます。しかし、もしそうであれば、ローマ人への手紙9章は書かれるべきではなかったことでしょう。パウロがこの問題をわざわざ取り上げて、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、全も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです(11-12)」とか、「ことは人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(16)」とか「こういうわけで、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神の御計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ、神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。(18-20)」などと書く必要はなかったでしょう。また、アルミニウス主義に立つなら、「ただ恵みだけなどと言っても、結局は、程度の差こそあれ、キリストの福音も自力救済を説いている」ことになります。なぜなら、アルミニウス主義の語っている事は結局、「律法を完全に守って救われることは誰にもできない。だから、福音を信じ、死ぬ時まで信じ続けるなら救われる、というレベルまで、神は救いの条件を下げられた。しかし、その条件を達成することは、やはり人間が自力でやらなければならない。」ということになるからです。だから、アルミニウス主義に立つなら、救われた人には誇る根拠があります。「あの人は信じないことを選んだ、だから滅んだ。私は信じる事を選んだ、だから救われた。」「あの人は途中で信仰を捨てることを選んだ、だから滅んだ。私は最後まで信仰を保ち続けることを選んだ、だから救われた。」ということになり、「神の恵みによって救われた」というより、「神の助けにより、私が自分で自分を救った」という結論を避けることは出来ないからです。もちろん、アルミニウス主義に立つのならば、堅忍の教理も成り立ちません。死ぬ時まで信仰を保ち続けるかどうかは、究極のところは本人の自由意志にゆだねられており、その自由意志とは神の支配から独立したものであって、人間の自由意志に基づく選択については、神にもどうすることも出来ないのですから。また、アルミニウス主義に立つのなら、聖書にどんなに素晴らしい約束が書かれていても、その全てに、(ただし、あなたが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)と付け加えなければなりません。

 

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ただし、彼らが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ただし、彼らが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません(ただし、私たちが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです(ただし、私たちが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ただし、あなたがたが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません(ただし、その者が死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(ただし、あなたが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るのなら)」

 

これではどんなに素晴らしい恵みの約束も絵に描いた餅、それどころか悪質な冗談であり、病人に対して、「エベレストに登れば、あなたの身体は強くなって、元気になれますよ。」と言うようなものです。私たちの信仰を攻撃して荒れ狂う、この世と罪と悪魔の力の強大さ、また、自分の実態と弱さを知る謙遜な人ほど、「信仰を保ち続ける、そのこと自体が、私にはできません」と言うことでしょう。さらに、救われた後、クリスチャンとして生き続けることは、自分の永遠の救いを危険に晒す、危険極まりない賭けということになります。「救われた直後に突然死して天国行きを確実にした人こそ、実は最も幸せな人だった」とか「信仰を失って死んだあの人も、信仰をもった直後に死んでいれば天国に行けたのにねえ」とかいうおかしな結論も避けられません。また、人間の自由意志を神の支配から独立させるアルミニウス主義の考え方に首尾一貫して立つなら、私たちは天国に行った後も、自由意志によって罪を犯して堕罪し、またもや創世記3章のように、全てが降り出しに戻る可能性を免れ得ない、ということになる筈です。

 

これに対して、カルヴァン主義的に、というより、こうでなければならないはずだという人間の諸前提を脇に置いて、あるがままに聖書を読むなら、福音を受け入れ、信じ続けることができること自体が異常な事であり、神の奇跡なのです。自分が福音を信じて救われることが出来たのは、神が世界の創られる前から自分を救いに選んでくださったからであり、それ以来、一日一日、一瞬一瞬、信仰を保ち続けることができたのも、そうして下さるという神の御計画に基づく約束があったからであり、もしそうでなければ、信じる事も、信仰を保ち続けることも、決してできなかったということを、その人は教えられ、また実感することでしょう。そして主はその御約束に従って、これからも、みもとに召される日まで、信仰を失う事の無いように、その全能の力と御支配によって確実に守って下さることを知って、畏敬と感謝と賛美と平安に満たされることでしょう。そして、救いに選ばれた人とそうでない人があるとすれば神は不公平ではないのかとか、神の支配と人間の責任はどのように調和するのかとか、選ばれない人は全て滅びるということなのだろうかとか、そういった、人間が解き明かすように召されてもいない、秘められた出来事については、この義にして愛なる、全知全能の絶対者の手に安んじて委ねる事でしょう。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。」(申命記29:29)「主よ。わたしの心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、くすしいことに、私は深入りしません。(詩編131:1)」とある通りです。そしてただ自分に明らかにされ、委ねられている事に専心する事でしょう。それは、神を愛し、信じ、従い、隣人を愛し、福音を語り、御言葉を学び、絶えず祈り、罪と戦い、聖さを追い求め、日々の義務を忠実に果たし、「ますます熱心に、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものと(Ⅱペテロの手紙1:10)」することです。

 

あなたが救われたというのはどういうことでしょうか。数えきれない人間の偶然の選択の結果、たまたま生み出された状況の中で、たまたま生み出された存在であるあなたが、たまたま幸運にもキリスト教に接することができて、「これは素晴らしいぞ!」とか「ちょっと信じてみようか」とか、あなたが自分から信じることを選んだ結果、幸運にも本当にそれが真理だった、ということなのでしょうか。そして、天国に行くまでは、これのみが絶対的な真理だとは証明はできないが、さしあたっては、あらゆる哲学や宗教との比較の中で、これが一番本物らしく、一番納得できるので、あなたがキリストを選び続け、留まり続けている、ということなのでしょうか。神はあなたがそのようにすることを予知しておられたのであり、あなたが死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るように喜んで可能な限りの助けを与えてくださるものの、究極的には、信じることを選んだのはあなたであり、天に召される日まで信仰を保ち続けることが出来るかどうかは、最終的にはあなた自身にかかっているのでしょうか。アルミニウス主義に立つなら、そのような結論は避けられません。

 

しかし、絶対にそんなことはありません。神の言葉によれば、神は天地の創られる前から、あなたという存在を選び、あなたが救われ、神の御子と同じような栄光の姿へと変えられて、天国で永遠に神と共に過ごすようにと、予め定めておられたのです(エペソ人への手紙1章他)。あなたが福音を信じたのは神の御計画であり、必然でした。そうでなかったら、信じることはできなかったでしょう。今まで信じ続けてこられたのも神の御計画であり、必然でした。そうでなかったら、信じ続けることは出来なかったでしょう。そして、天に召されるその時まで、あなたは必然的に信仰を保ち続け、キリストの似姿へと変えられ続け、その信仰は成長し続けることでしょう。それが神の予め定められた御計画であり、神の御計画は必ず実現するからです。これこそ聖書の語る真の福音です。どんなに弱い者であっても、どんなに小さい者であっても、本当に主イエスを信じているのなら、その信仰は、永遠の御計画に従って神が与えてくださったものであり、神が絶対確実にその信仰を保ち、成長させて下さり、絶対確実に天の御国へと導き入れてくださるのです。

 

勿論、選びと予定と堅忍を信じることは、救いに必須ではありません。救いの確信が無く、自分は本当に天国に行けるのだろうか、イエス様に拒否されたらどうしよう、怖い怖い、としょっちゅう恐れているような人でも、本当に主イエスを救い主として信じているのなら確実に救われ、天国に行けます。同じように、アルミニウス主義の立場に立って堅忍を信じず、信仰を持つことを選んだのは私自身であるから、私が死ぬ時まで信仰を保ち続けることが出来るかどうかは分からないと恐れている人であっても、主イエスを本当に信じているのであれば、堅忍によって確実に守られ、天国へ凱旋することでしょう。救いに必須なのは聖霊による新生と信仰義認だけです。主イエスを信じ、聖霊によって新しく生まれることによって、義認という最高の宝を自分のものにしていさえすれば、確実に救われ、天国には行けます。しかし、私たちが救われた目的は単に地獄を免れるため、単に場所としての天国に行くためではありません。私たちが救われた目的、天国の本質は、神を神のままに、神の聖を聖のままに、神の義を義のままに、神の主権を主権のままに、神の全能を全能のままに知り、喜び、讃え、あがめることです。救いの確信にせよ、堅忍にせよ、予定にせよ、選びにせよ、神が聖書の中に啓示して下さった全ての宝を、人間の先入観によって分け隔てせずに、一つも漏らすことなく、喜んでありがたく信じ、その全てを信仰によって喜び味わったほうが、私たちが救われた目的にかなう、遥かにまさった、力強く、平安で、素晴らしい信仰生活を送ることが出来ると私は信じます。あなたはどうでしょうか。

 

推薦図書 

ボエトナー(ローレン・ベットナー)「カルヴィン主義予定論」

J・I・パッカー 「伝道と神の主権」

D・M・ロイドジョンズ「ローマ書講解」

PVアクセスランキング にほんブログ村