札幌キリスト聖餐教会

札幌市北区の小さなプロテスタント教会から、聖書のことばをまっすぐに、わかりやすくお届けします

信仰の体験談 於 座談会「一緒に考える心のこと」

こんにちは。私は、三人の子どもの母親で、長い間、ホスピスや緩和ケア病棟で、緩和ケアに携わってきました。
緩和ケアというのは、命を脅かす病気を抱えている方々の、痛みや苦しさ、不安などのつらい症状を和らげる医療です。
そして私は、摂食障害の経験者でもあります。
今日は、そのことについてお話しさせていただきたいと思っています。
今日のテーマは、「一緒に考える心のこと――摂食障害を中心に」です。
皆さんと一緒に、聖書に基づいて心のことを少し考える時間にできたらと思っています。

今日の流れは、プリントの後半にもありますように、まず私自身のことをお話しします。
そのあとで、摂食障害の根っこにあるもの、そこからの変化、そして回復に向けて、という順番でお話しします。
その後は、自由にお話しする時間にしたいと思っています。

まず、皆さんにお配りしたプリントの上の方にある、「名称・分類について」というところからお話しさせてください。
プリントには、「食行動症」または「摂食症群」と書かれています。
近年は、「摂食障害」という言い方ではなく、このような言い方をするようになってきました。
最近は、「障害」という言葉を使わない方向になってきているからです。

この摂食症群は、大きく三つに分けることができます。
神経性やせ症、神経性過食症、むちゃ食い症の三つです。

神経性やせ症は、さらに二つに分かれます。
一つは、制限パターン。
もう一つは、むちゃ食い・排出パターンです。
制限パターンというのは、ひたすら食べることを我慢し、食事を制限して、やせていくもので、過剰な運動を伴うこともあります。
むちゃ食い・排出パターンというのは、たくさん食べた後に、それを嘔吐や下剤や利尿薬などによって外に出そうとするものです。
どちらの場合も、体重は減っていき、死亡率が他の精神疾患より高く、高度な場合は入院治療が原則です。また、行動は隠れてすることが多く、家族でも把握できていないことが多いです。

二番目の神経性過食症は、たくさん食べて、その後に吐いたり、下剤を使ったりするという点では、神経性やせ症のむちゃ食い・排出パターンと似ています。
ただし、神経性過食症の場合は病的にやせていないので、外からはあまり不健康には見えないことが多いです。
三番目のむちゃ食い症は、たくさん食べるのですが、その後に吐いたり、下剤を使ったりすることはありません。
私の場合は、神経性やせ症の二番目、つまり、むちゃ食い・排出パターンでした。このあとはわかりやすく摂食障害と言う名称でお話しさせてください。

私のこと
では、私自身のことについてお話しさせていただきます。
私は、中学校三年生の時にダイエットを始めました。
きっかけは、セーラー服の高校を目指していたので、「セーラー服が似合う体型になりたい」と思ったことでした。
大学は地方でしたので、家族から離れて一人暮らしをすることになりました。
そうすると、食事を自分で自由に決めることができます。
それで、ダイエットのためということもあり、また運転免許取得のために食費を切り詰めたいということもあって、食事の量が極端に少なくなっていきました。
やせたことはやせたのですが、その反動で、ある時たくさん食べてしまいました。
その時に食べたのは、入学のときお餞別でもらったお菓子でした。食べた後で、私は「困ったな。太ってしまう」と思いました。
その時に考えついたのが、「あ、吐けば全部リセットできるんだ」ということでした。
これが、過食嘔吐の始まりでした。

以前の私には、妹に対するコンプレックスがありました。その理由は色々ありましたが、一例としてこんなエピソードがありました。小学校四年生の時、一年生として入学してきた妹を見て、クラスメートがこう言いました。
「お前の妹、かわいいな。お前と似てねえな」
その言葉によって、私の中に、
「妹はかわいい。私はブス」
という位置づけができました。
また中学校の頃、妹は私と喧嘩をすると「ブスのくせに」と思っていたそうです。これは私たちが大きくなってから事実確認済みです。
それから、小さい頃私は鏡の前で自分の顔を見て泣いていたそうです。

話は脱線しますが、妹が姉たちをばかにしていたので仕返しというか意地悪をしたことがあります。妹が姉を太っていると馬鹿にしていたので、自分だって思春期になれば体重が増えるんだとわからせたくて、優しい姉のふりをしてカロリーたっぷりのランチやおやつを作ってあげて、結果見事に妹は体重が増えました。今では妹はこの話をネタとして友達に話しているそうです。

話は戻って、私の中には、「いい子でありたい」という思いがいつもありました。
そして、「やせていればいるほどいいんだ」という価値観もありました。
また大学のとき強迫性障害も発症し辛い毎日でした。
そんな私が、どうして摂食障害から抜け出していくことができたのか。
実は大学卒業と就職前後で食事量と体重は回復していったのですが、考え方の根底は同じままで、過食嘔吐を繰り返していました。

考え方が変わっていった理由で一番大きかったのは、今の私が、最高に愛され、最高に受け入れられているのだと知ったことでした。
それは、神様から。
そして、家族からです。
今の状態の私を、そのまま受け入れてくれる存在がある。
これは、とても大きなことでした。
不必要にやせる必要はない。
今の私でいいんだ、ということです。

以前の私は、胃下垂もあってお腹がとても気になっていました。
どれだけやせても、「お腹が出ている」と思っていました。
BMIからは重度の痩せで生理も止まっていましたが、自分のことをやせすぎだとは決して思えませんでした。
でも今は、出るところは出て、ふっくら。お腹も出ている。
それが自然なのだと分かるようになりました。

また、私の傾向として、完璧主義や、全か無かで考えてしまうところがありました。
でも今は、「そういうものではないんだよ」と、いつも言ってくれる家族がいます。
子どもが生まれて、家が散らかっているなど、思い通りにならないことがたくさんある。
そういう生活の中で、いろいろなことに少しずつ折り合いをつけられるようになっていきました。

摂食障害の根っこ
私の体験はここでいったん区切って、次に「摂食障害の根っこ」についてお話ししていきます。
一つ目は、飢えです。
摂食障害の人には、食べ物に飢えている心があります。
でも、本当の飢えは、食べ物そのものではないことがあります。
私の場合、本当の飢えは、人から評価されることへの飢えでした。
そしてその背景には、先ほどお話しした、妹に対するコンプレックスなどがありました。

次に、不安です。
不安にもいろいろな不安があると思います。
私の場合は、人の目が気になる不安、太っていると思われる不安、仕事の不安など、いろいろな不安がありました。
食べることで、不安から逃げることができました。
また、過食して嘔吐することを、「不安やストレス」のせいにすることもできました。

次に、支配したい、コントロールしたいという思いです。
お腹が空いて食べたいという思い。
でも、太りたくないから食べたくないという思い。
そのせめぎ合いが、私の中にありました。
コントロールを失い、食べすぎても止められない。
そして、太ってしまうという不安から、吐いていました。
自分はコントロールを失っている。
だから、何とかコントロールしたい。
体重をコントロールしたい。
食欲をコントロールしたい。
そういう思いがありました。

次に、自分を恥ずかしく思う気持ちです。
私の場合、「太っていると思われたら恥ずかしい」「吐いていることがばれたら恥ずかしい」という思いがありました。
そういう恥ずかしさが、心の中にありました。
そして最後に、怒りそして絶望です。
人生の中で抱えている怒りや恨みが、根っこになることもあります。
また、人生における絶望が根っこになって摂食障害へ逃げてしまうこともあります。

変化について
次に、変化についてお話しします。
ここからは、聖書に基づいてお話ししていきます。
まず、変化への期待というものがあります。
神様を信じて救われた時、罪からもすべて解放され、過食からもすべて解放されるのではないか、という期待があるかもしれません。
私にも、そのような期待がありました。
しかし、変化の中には混乱もあります。
昔の自分が、また主導権を取ってしまう誘惑があります。
人は、一日では変わりません。
神様を信じてからも、私たちは一生かけて新しくされ続けていくのです。
でも、それでいいのです。
なぜなら、すべて神様に受け入れられ、愛されているからです。
そして、弱さや苦しみがあることも、あらかじめ覚えておく必要があります。
これは、神様に従って歩む時、避けられないものです。

さて、古い自分、古い習慣というものは、ある意味で心地よいものです。
慣れているからです。
すぐに戻りたくなります。
しかし、そこで大事なのは、自分で自分に話しかけることです。
挑戦すればするほど、流れに逆らって泳ぐことが、少しずつ簡単にできるようになります。
そしてついには、新しい習慣が、第二の天性のように感じられるようになっていきます。

極端な白黒思考。
否定的な選び取り。
最悪の想定。
何でも悪い方に一般化してしまう考え方。
こういったものも、古い自分の一部です。
古い習慣をまたしそうになった時には、立ち止まってよく考え、自分に質問することが大事です。
「本当にそれをして、私は幸せなの?」
「それをしたら、どうなる?」
「どんな気持ちになる?」
「それをしなかったら、どんな気持ちになる?」
そのように、自分に問いかけてみることです。
感情をすべてシャットアウトすることも、よくありません。
けれども、感情に盲目的に従ってしまうことも、よくありません。
大切なのは、感情に耳を傾けることです。
そしてその上で、その感情に話しかけること、語り返すことです。

回復に向けて
次に、回復に向けてということでお話しします。
まず、飢えについてです。
本当は、自分は何に飢えているのか。
食べ物に飢えているのか。
それとも、食べ物ではない、もっと深いものに飢えているのか。
食べ物ではなく、もっと良いもの、もっと素晴らしいお方を求め、その方に満たしていただくことが回復の鍵です。
そのお方とは、神様です。
一回だけではなく、繰り返し、何度も神様に立ち返り、神様に満たしていただくことが大事です。
むちゃ食いする食べ物は、おしゃぶりのようなものです。
子どもが、おっぱいの代わりにくわえるおしゃぶりのようなものです。
おしゃぶりでは、本当の空腹を満たすことはできません。
本当の飢えを満たすこともできません。
自分でおしゃぶりによって満たそうとする代わりに、神様に真実に満たしていただきたいと思います。

次に、不安についてです。
どのようなことが起こったとしても、すべてを支配しておられ、必ず支えてくださる神様にすべてを委ねていく時に、安心が与えられます。
太っても大丈夫。
吐かないで、神様の願われることをしていよう。
そう思えるようになっていきます。
そして、神様の目を通して自分を見ることが大事です。
神様の目には、私は価値あるものです。
人からの評価を恐れるところから解放され、神様からの評価こそが何より大事なのだと感じることができるようになります。

また、「どうせ古い習慣の誘惑と戦っても負ける」という不安もあると思います。
私の場合、何度も何度も挑戦しました。
食べたい。
吐きたい。
もっと食べて、もっと吐きたい。
その思いに何度も挑戦しました。
けれども、結局は負けて、食べて吐いてしまう。
それを繰り返すうちに、最初から戦わずに、食べて吐くようになってしまいました。
今でも、一年に一、二度は、食べ吐きをしてしまうことがあります。
しかし、聖書にはこうあります。
「恐れないで善を行いなさい。」
祈るとき、神様が助けてくださいます。あきらめてはいけません。

次に、支配したい、コントロールしたいという思いについてです。
完璧主義は、こう言います。
「もっと頑張れ。あなたにはできる。」
しかし聖書は、こう言います。
「コントロールを神様に渡すことによって、本当の自由を見いだすことができる。神様だけが完璧で、信頼できるお方だ。」
また聖書は、神様がすべてを支配しておられ、神様を信じる者のために、すべてを良いこととして働かせてくださると約束しています。
そして、こうも言ってくださいます。
「あなたは無力です。
イエス様だけが救いです。
休みなさい。」
神様が、私の毎日を全部ひっくるめて導いてくださいます。
ですから、コントロールしたいという思いも、すべて神様に委ねることができます。
そしてその結果、神様から安心と休みを受け取ることができるのです。

次に、自分を恥ずかしく思う気持ちについてです。
恥ずかしい思いと言っても、正しいものもあります。
罪を神様の前で悲しむ思いは、正しい思いです。
しかし、自己嫌悪に陥って、「自分なんて価値がない」と思ってしまう心は、正しい思いではありません。
正しい思いに対しても、正しくない思いに対しても、神様からのあわれみと赦しと解放があります。
それはつまり、信じ赦され救われて神の子とされた人たちは、神様に完全に知られているけれども、それでもなお、完全に受け入れられ愛されているということです。

次に、怒りへの対処について見ます。
相手を自分で裁き、やり返すのではなく、正しく裁いてくださる神様に委ねるということです。

また、絶望への対処についてです。
神様が、私の痛みをご存じであること。
そして、神様がその痛みを負ってくださったことを考えることです。
神様は、絶望に勝利してくださる方です。

過食嘔吐の対策
最後に、おまけとして、過食嘔吐の対策を少しお話ししたいと思います。
まず、自分にとって過食嘔吐の引き金は何なのかを分析し、心に留めておくことです。
食事を抜かないこと。
できるだけ多くの人と一緒に食べること。
食後に一緒にいて、支えてくれる人を求めること。
他の人にも祈ってもらうこと。
食べ物に関係しない活動を計画すること。
空腹の時に買い物に行かないこと。
事前に買い物リストを作っておくこと。
すべての小さな成功を記録すること。
失敗から学ぶこと。
「しないことで、今日はどうなるか」
あるいは、
「することで、今日はどうなるか」
を考えること。
そして、神様に受け入れられているということを、たびたび思い起こすことです。

聖書には、いろいろな言葉がありますが、例えばこの一節があります。
イザヤ書43章4節というところに書かれています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

最後に
最後に、私が摂食障害から回復した鍵をもう一度言います。
それは、私を完全に知り、しかも完全に受け入れてくださる神様がいらっしゃる、ということでした。
皆さんも、この素晴らしい神様に出会い、回復されることを心から願っています。
また、私たちはいつでも力になりたいと思っています。
何かつらいことがありましたら、ご連絡くださると幸いです。
以上で終わります。

ではこの後、皆さんと一緒にお話をしていきたいと思います。

 

 

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