本章の中心は、イエスが約束されたキリスト、すなわち生ける神の御子であること、そしてそのキリストが十字架によって救いを成し遂げられるということです。ペテロはイエスを正しく「キリスト」と告白しましたが、直後にはキリストの十字架を拒みました。しかし、十字架を抜きにしてキリストを正しく理解することはできません。キリストを信じる者も、自分を捨て、自分の十字架を負って、その後に従わなければなりません。
第一に、パリサイ人とサドカイ人は、信じるためではなく、イエスを試すために天からのしるしを求めました。パリサイ人とサドカイ人は、普段は教理的にも政治的にも対立していました。しかし、イエスを拒むことにおいては協力しました。
彼らは空の様子を見て、天気を予測することはできました。しかし、イエスが病人を癒やし、悪霊を追い出し、目の見えない人を見えるようにし、大群衆をパンで養われたことを見ながら、それがメシア到来のしるしであることを認めませんでした。証拠が不足していたのではありません。どれほど証拠を見ても、イエスを信じたくなかったのです。
イエスは、この悪い姦淫の時代には、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられないと言われました。ヨナのしるしとは、前に12章で説明されたように、イエスが死んで葬られ、三日目によみがえられることです。イエスがキリストであることの決定的なしるしは、十字架と復活です。これを拒み信じようとしない者に、さらに派手なしるしを与えても、信仰は生まれません。
第二に、イエスは弟子たちに、パリサイ人とサドカイ人のパン種に注意するよう命じられました。しかし弟子たちは、パンを持って来なかったことを責められていると思いました。イエスは、五千人と四千人を養った二つの奇跡と、残ったパンのかごの数を思い出させました。
弟子たちは奇跡を忘れていたというより、その意味を現在の問題に当てはめることができませんでした。大群衆を養ったイエスが一緒におられるのに、パンがないことを心配していました。過去に受けた恵みを覚えるとは、単に出来事を記憶することではありません。以前に助けてくださった主を、現在の不足や困難の中でも信頼することです。
パン種とは、パリサイ人とサドカイ人の教えです。パリサイ人は人間の言い伝えと形式主義による自分の正しさを重んじ、サドカイ人は復活や霊的な世界を否定していました。両者の考えは違っていましたが、自分たちの基準によって神の言葉を判断し、キリストを拒んだ点では同じです。
パン種は、わずかな量でも生地全体に広がります。同じように、神の言葉より人間の考えを上に置く教えは、少し受け入れただけでも、やがて信仰全体を変えてしまいます。間違った教えは、生活にすぐ大きな変化を起こさないように見えても、時間をかけてキリストから人を遠ざけます。
第三に、ペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。人々はイエスを、バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、または預言者の一人だと考えていました。どれもイエスを高く評価する言葉です。しかし、イエスを偉大な預言者の一人と考えるだけでは不十分です。
そこでイエスは弟子たちに、
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
と尋ねられました。信仰は、世間でイエスがどう評価されているかを知ることではありません。自分自身が、イエスをだれと信じるかという問題です。
「キリスト」とは、旧約聖書に約束された油注がれた王、救い主という意味です。さらにペテロは、イエスを「生ける神の御子」と告白しました。イエスは単なる人間の教師でも、政治的な解放者でもありません。父なる神から遣わされた、神の御子です。
イエスは、この告白をしたペテロを幸いだと言われました。それを明らかにしたのは「人間ではなく、天におられるわたしの父」だからです。イエスがキリストであることは、人間の知恵によって発見される真理ではありません。父なる神が心の目を開き、御子がだれであるかを示してくださることによって、初めて、人は信じることができます。
第四に、イエスは、
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」
と言われました。「この岩」をペテロと全く無関係なものと考えるのは不自然です。事実、後にペテロは初代教会の指導者の一人となりました。しかし、これはカトリック教会が主張するような、ペテロ個人が、キリストの代理人、間違うことのない教会の最高指導者、すなわち初代ローマ教皇として任命されたという意味ではありません。
ペテロは、イエスをキリストと告白する使徒として、教会の土台となりました。教会は、キリスト御自身を土台とし、キリストについての使徒たちの証言の上に建てられます。ペテロ個人の能力や人格ではなく、神から示されたキリストについての使徒的な告白が、教会の土台です。ペテロはそのような者たちの一人として、教会の土台となりました。
実際、ペテロはこの直後、イエスから「サタン」と厳しく叱られます。したがって、この言葉から、ペテロ個人やその後継者が個人的に誤ることのない権威を持つと考えることはできません。教会の主人はペテロではなく、「わたしの教会」と言われたキリストです。教会を建てるのも、守るのもキリストです。その代理人、後継者は存在しません。
「ハデスの門も、それには打ち勝てません」とは、死の力もキリストの教会を滅ぼすことができないという意味です。これは、すべての教会組織が必ず存続するという約束ではありません。個々の教会は、神の言葉から離れれば消滅することがあります。しかし、キリストを真に信じる者の群れ、すなわちキリストが建てられる真の教会は、迫害され、多くの信仰者が殺されても、キリストの再臨の日まで地上からなくなりません。
また、イエスはペテロに天の御国の鍵を与え、地上でつなぐことと解くことについての権威を与えられました。鍵は、御国への扉を開き、また閉じる権威を表します。ペテロは福音を宣べ伝えることによって、ユダヤ人に、そして異邦人に、御国の扉を開く重要な働きをしました。
「つなぐ」「解く」とは、何が神の言葉に従って許され、何が禁じられるかを判断し、また、福音を信じる者には罪の赦しを、拒む者には罪が残ることを宣言する権威です。しかし、それはペテロ自身の判断によるのではありません。それは、天で定められている神の御心を、地上で正しく宣言する権威です。この権威は18章では教会にも与えられます。そしてその基準は、特定の個人の判断ではなく、誤ることのない神の言葉である聖書66巻にあります。
第五に、ペテロはイエスをキリストと告白しながら、キリストの十字架を受け入れることができませんでした。この時からイエスは、御自分がエルサレムへ行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められました。
十字架は、人間の計画が失敗したために起こる不幸な事故ではありません。イエスは「そうならなければならない」と言われました。罪人を救うために、神の御子が罪の刑罰を負い、死に、よみがえることは、父なる神の救いのご計画でした。
しかしペテロはイエスをわきへ連れて行き、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と叱り始めました。ペテロは、イエスがキリストであることは信じましたが、自分が期待するキリスト像を捨てることができませんでした。勝利するキリストは受け入れても、苦しんで死ぬキリストは受け入れられなかったのです。
そこでイエスは、
「下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っています」
と言われました。サタンが荒野で、十字架を通らずに世界の王となる道を示したように、ペテロも善意から、十字架を避ける道を勧めました。
善意で語られた言葉でも、神のご計画に逆らうなら、サタンに利用されることがあります。人間的には愛情深く、合理的に聞こえても、十字架を避けさせ、神への従順から離れさせるなら、それは神のことではなく、人のことを思う考えです。
ペテロは「岩」と呼ばれた直後に、「つまずかせるもの」となりました。神から真理を示された経験があっても、その後のすべての考えが自動的に正しくなるわけではありません。どんな人であっても、罪や過ちから完全に守られている人はいません。常に神の言葉によって考えを正される必要があります。
第六に、キリストに従う者も、自分を捨て、自分の十字架を負わなければなりません。イエスは、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」
と言われました。
ペテロの言葉は、一見すると、イエスを思いやった言葉に聞こえます。しかし実際には、主がはっきり語られた神のご計画を、自分の願いや常識によって否定するものでした。ペテロはキリストを正しく告白しましたが、自分が望むキリストの姿に、イエスを合わせようとしたのです。
ここには、人間の根深い十字架嫌いが現れています。人は救い、平安、勝利、栄光は欲しがります。しかし、罪を指摘されること、自分の考えを捨てること、神に従うために評判や利益を失うことは避けようとします。キリストには従いたいが、自分の生活設計や人間関係やこの世での立場が脅かされない範囲で従いたいのです。十字架のないキリスト、自己否定のない信仰、服従のない救いを求めます。
この誘惑が危険なのは、露骨な不信仰ではなく、思いやりや常識や慎重さの姿を取って現れることです。「そこまでしなくてもよい」「神もそんな犠牲までは求めない」「自分を守ることも大切だ」と言って、神の言葉よりも人間の判断を優先させます。しかし、神が命じておられることを避けさせる助言は、どれほど親切に聞こえても、神の道を妨げるものです。イエスがペテロに「下がれ、サタン」と言われたのは、彼の言葉が、十字架を通らずに御国の栄光を得させようとしたサタンの誘惑と同じ方向を向いていたからです。
もちろん、キリスト者は苦しみそのものを求めるのではありません。イエス御自身もゲツセマネで、できることなら苦い杯が過ぎ去るように祈られました。しかし同時に、
「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」
と祈られました。十字架を負うとは、苦しみを好むことではなく、苦しみを避けるために神への服従を捨てないことです。
自分を捨てるとは、自分には価値がないと思い込むことではありません。自分を人生の主人とすることをやめ、キリストを主として従うことです。また、自分の十字架とは、単に病気や人間関係など、自分にとってつらいこと全般を指すのではありません。十字架は、当時の人々にとって、恥と死刑の道具でした。キリストに従うために、損失、拒絶、迫害、さらには死をも引き受ける覚悟を表しています。
弟子の十字架は、キリストの十字架のように罪を贖うものではありません。救いはキリストだけが成し遂げてくださいました。しかし、そのキリストに従う者は、自分を人生の主人とすることをやめ、従順のために必要なら、損失も恥も迫害も、時には死さえも受け入れます。キリストを正しく告白するとは、単に正しい称号を口にすることではありません。十字架を通って栄光に入られるキリストを受け入れ、その後に従うことなのです。
自分の命を守るためにキリストを拒む者は、最後にはその命を失います。しかし、キリストのために自分の命を失う者は、永遠の命を得ます。全世界を手に入れても、自分の魂を失うなら、何の得にもなりません。この世の成功、財産、名誉、快楽をすべて集めても、一度失った魂を買い戻すことはできません。
人の子すなわち主イエス・キリストは、やがて父の栄光を帯び、御使いたちとともに来て、一人ひとりにその行いに応じて報いられます。救いは行いによって買い取るものではありません。しかし、行いは、その人が本当にキリストを主として信じ、従っていたかを明らかにします。今、人からどのように評価されているかではなく、最後にキリストからどのような評価を受けるかが永続的で、決定的なことす。
第七に、イエスは、弟子たちの一部が死ぬ前に、御国の栄光を見ると約束されました。
「ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます」
と言われました。
この言葉には、復活、昇天、聖霊降臨、再臨など、いくつかの解釈がありますが、直後の変貌の出来事を指すと理解するのが最も自然です。六日後、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは高い山へ連れて行かれ、イエスの御姿が太陽のように輝くのを見ました。それは最終的な再臨そのものではなく、やがて御国の王として来られるキリストの栄光を、前もって見せられた出来事です。
弟子たちは、十字架へ向かわれるイエスが、敗北して終わるのではないことを知らされました。十字架の先には復活があり、苦難の先には御国の栄光があります。キリストに従って自分の命を失う者が、最後に損をすることはありません。
つまり本章は、イエスを単に偉大な人物の一人としてではなく、生ける神の御子キリストとして告白せよと語っています。しかし同時に、自分の期待に合うキリストを信じるのではなく、十字架によって罪人を救われるキリストを信じなければなりません。
キリストを主と告白するとは、正しい信仰告白を口にすることにとどまりません。自分を人生の主人とすることをやめ、十字架を負ってキリストに従うことです。全世界よりも自分の魂を重んじ、人のことではなく神のことを思い、やがて栄光のうちに来られるキリストを待ち望んで生きる者へと、新しく生まれ変わることなのです。
聖書本文

16:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
16:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
16:7 すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
16:9 まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
