本章でいう「実」とは、悔い改めて神の御子イエスを信じ、その信仰が神への従順、義、あわれみ、祈り、賛美となって生活に現れることです。それは救いを得るための功績ではなく、キリストを信じ、御国を受け入れたことの結果であり、証拠です。
本章の中心は、神は、宗教的な外形や口先の信仰ではなく、この御国の実を求めておられるということです。祭司長やパリサイ人たちは、神の民としての外形を備えながら、神が遣わされた御子を拒みました。彼らは葉を茂らせながら実を結ばないいちじくの木のようでした。一方、取税人や遊女たちは、ヨハネの言葉を信じて悔い改めました。神の御国に属するかどうかは、社会的立場や何者であると名乗っているかによってではなく、御子を信じ、御国の実を結んでいるかによって明らかになるのです。
第一に、イエスは預言された王としてエルサレムに入られました。イエスは弟子たちに命じ、ろばと子ろばを連れて来させ、その子ろばに乗って都に入られました。これはゼカリヤ書9章に預言された、
「見よ、あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの子に乗って」
という言葉の成就でした。
ろばに乗ることは、イエスが弱く、王としての力を持たないという意味ではありません。イエスはやがてすべての敵を裁く王として来られます。しかしこの時は、罪人を救うため、身代わりとなって十字架で死ぬ、柔和な王として来られたのです。
群衆は、自分たちの上着や木の枝を道に敷き、
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」
と叫びました。「ホサナ」とは、「今、救ってください」という意味です。彼らはイエスを、ダビデに約束された王として迎えました。しかし、群衆がイエスの王権と救いをどこまで正しく理解していたかは別の問題です。都の人々から「この方はだれなのか」と尋ねられると、群衆は「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。イエスを偉大な預言者として認めることと、罪から救う神の御子として信じることは同じではありません。
イエスを熱心に歓迎することと、イエスを正しく信じることは同じではありません。自分の願いを実現してくれる救い主として歓迎しても、自分の罪を指摘し、悔い改めと服従を求める王としては拒むことがあります。大切なのは、私たちが期待するイエスではなく、聖書が示すイエスを受け入れることです。
第二に、イエスは神殿をきよめ、その本来の目的を明らかにされました。イエスは神殿に入り、神殿の中で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。
遠方から来る人々のために犠牲の動物を用意し、神殿で用いられる貨幣に両替すること自体には、必要な面がありました。しかし、神を礼拝するための場所が売買と利益のために占領され、宗教制度が人間の利益のために利用されていました。イエスは、単に不正な商人を追い出されただけではなく、神殿全体に対する王としての権威を示されたのです。
イエスは、
「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」
と言われました。「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」はイザヤ書56章7節から、「強盗の巣」はエレミヤ書7章11節からの直接の引用です。
エレミヤの時代の人々は、盗み、殺人、姦淫、偽りの誓い、偶像礼拝などの罪を犯しながら、神殿に来れば自分たちは守られると思っていました。「強盗の巣」とは、強盗が悪事を働く場所というよりも、悪事を働いた後に逃げ込む隠れ家です。彼らは罪を悔い改めないまま神殿に逃げ込み、宗教儀式を行えば神の裁きから安全であると思っていたのです。
同じように、イエスの時代の宗教指導者たちも、神殿を管理し、宗教的権威を持ちながら、ヨハネの言葉を信じず、神が遣わされた御子をも拒もうとしていました。それでも、神殿と自分たちの宗教的地位によって守られていると思っていたのです。問題は、物の値段が高かったということだけではありません。神に従わない者が、神の家を自分の罪と権威を守るための隠れ家にしていたことが、より深い問題でした。
エレミヤは、悔い改めない民の神殿は、かつてのシロの聖所と同じように滅ぼされると警告しました。したがって、イエスの宮きよめも、単なる神殿改革ではなく、神殿に対する裁きのしるしでした。神の名を掲げ、宗教的な活動を続けていても、悔い改めと信仰という実がなければ、それが神の裁きから人を守ることはできません。
しかし同時に、イエスのもとには、目の見えない人や足の不自由な人がやって来て、癒やされました。宗教を利用して利益を得る者たちは追い出され、助けを必要とする者たちは受け入れられました。王であるイエスの支配は、罪を裁くと同時に、弱い者をあわれみ、回復させる支配です。
第三に、神は子どもたちの口を通して、王であるイエスへの賛美を起こされました。子どもたちは神殿で、「ダビデの子にホサナ」と叫び続けました。祭司長や律法学者たちは、イエスの力ある御業を見ても喜ばず、子どもたちの賛美に腹を立てました。
するとイエスは、詩篇8篇の、
「幼子たち、乳飲み子たちの口に、あなたは賛美を用意された」
という言葉を引用されました。詩篇8篇では、神が弱く小さな者の口を通して御力を現し、敵対する者を黙らせることが語られています。神殿で権威を持つ宗教指導者たちは御子を拒みましたが、社会的な地位も多くの聖書知識も持たない子どもたちの口から、王であるイエスへの正しい賛美がささげられました。
イエスは子どもたちの賛美を止めず、神への賛美について語られた詩篇の言葉を御自分に当てはめて、その賛美を受け入れられました。ここにも、イエスが単なる預言者ではなく、神の御子であることが示されています。
子どもであることには、信仰を受け入れる上で一つの有利さがあります。子どもにも罪はあり、子どもだから自動的に神を信じるわけではありません。しかし一般に子どもは、大人ほど多くの社会的立場や評判や既得権を持っていません。自分が間違っていたと認めることによって失うものも少なく、驚くべきことを驚き、喜ぶべきことを素直に喜ぶことができます。また、自分一人では生きられず、誰かに頼らなければならないことを、生活そのものを通して知っています。
一方、大人には知識と経験がありますが、それがかえって信仰を妨げることがあります。自分はすでに知っている、自分の判断は正しい、自分の社会的立場や評判を守らなければならないという思いが、目の前にある神の御業を認めさせなくするのです。祭司長や律法学者たちは、子どもたちよりもはるかに多く聖書を知っていました。しかし、イエスを認めれば自分たちの権威と立場が揺らぐため、明らかな御業を見ても賛美できませんでした。子どもたちには彼らほどの知識はありませんでしたが、彼らのように自分を守る必要はありませんでした。
子どものように信じるとは、何も考えずに信じることや、幼稚なままでいることではありません。神の国を自分の知恵や功績によって獲得しようとせず、神からの賜物として受け取ることです。自分の立場や理解を神の上に置かず、神が示してくださった御子を喜んで受け入れることです。
子どもは子供のままで福音を聞き、イエスを信じ、神を賛美することのできる存在です。理解できるようになるまで福音を後回しにするのではなく、分かる言葉で御言葉を教え、子どもの心に神が働いてくださることを期待しなければなりません。
第四に、実を結ばないいちじくの木は、外形だけの信仰に対する裁きを示しています。イエスは道端のいちじくの木に近づかれましたが、葉のほかには何も見つかりませんでした。そこで、
「今後いつまでも、おまえの実はならないように」
と言われると、いちじくの木はたちまち枯れました。
これは、空腹だったイエスが腹を立てて木を枯らしたという話ではありません。葉を茂らせながら実を結ばない木を通して、悔い改めと信仰の実を結ばなかった当時のイスラエル、特に神殿と宗教指導者たちに対する裁きを、目に見える形で示されたのです。
彼らには、神殿、礼拝、律法の知識、祭司制度という多くの葉がありました。しかし、神が遣わされたバプテスマのヨハネを信じず、御子を受け入れませんでした。宗教的な活動が盛んであることと、神が求めておられる実を結んでいることは同じではありません。聖書を知り、正しい言葉を使い、教会に属していても、悔い改めて御子を信じ、御言葉に従うことがなければ、葉だけのいちじくの木になり得ます。
弟子たちは、いちじくの木がたちまち枯れたことに驚きました。するとイエスは、信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったようなことだけでなく、山に向かって「立ち上がって海に入れ」と言っても、そのとおりになると教えられました。
「山が海に入る」とは、人間の力では到底実現できないことを表す比喩的表現です。弟子たちが自分の都合に合わせて自然を動かせるという意味ではありません。神が御心を行われるときには、人間には動かすことのできない巨大な障害も、神にとっては障害にならないということです。弟子たちはこれから、主イエスを拒む強い敵意の中で、世界に福音を宣べ伝えるという、人間の力では成し遂げられない使命を与えられます。しかし、神にはその道を開き、不可能に見えることを実現する力があります。
「信じて疑わない」とは、自分の願いは必ず実現すると強く思い込むことでも、心から不安を完全に追い出すことでもありません。信仰の力は、私たちの確信の強さにあるのではなく、信仰する対象である神の全能と真実にあります。弱さや恐れを感じながらでも、神にはできないと決めつけず、神の力と約束により頼むことができます。
ここでは、神が明確に約束されたことと、私たちが個人的に願っていることを区別しなければなりません。神が御言葉によって明確に約束されたことは、どれほど不可能に見えても、必ず実現すると信じることができます。しかし、神が結果を約束しておられない個別の願いについては、自分が強く信じればそのとおりになると断言することはできません。
たとえば、神には病を癒やす力があると信じて、具体的に癒やしを求めることができます。しかし、神が個別に約束しておられないのに、「必ず癒やされると宣言すれば癒やされる」と考えることは、聖書が教える信仰ではありません。信仰とは、自分の望む結果を確信することではなく、どのような結果の中でも、神の力と知恵と愛を信頼することです。
「祈り求めるものは何でも受けます」という約束も、神の御心と御言葉から切り離すことはできません。主イエス御自身も後にゲツセマネで、御自分の願いを率直に父に申し上げながら、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」と祈られました。御心に従うことは、信仰が足りないために付け加える逃げ道ではありません。自分よりも父の知恵を信頼する、信仰そのものです。
しかし、だからといって、この約束を「結局は何を祈っても同じだ」という意味に弱めてもなりません。祈りは、自分の心を落ち着かせるだけの行為ではありません。神は弟子たちの祈りを、ご自分の御業を実現するための手段として実際に用いられます。私たちは願いを具体的に申し上げ、人間には不可能に見えることについても、神が道を開いてくださることを期待して祈ることができます。
信仰とは、人間の願望を実現する力でも、神を動かすための技術でもありません。神が語られたことは必ず実現すると信じ、まだ結果を示されていないことについては大胆に願いながら、全能で真実な神に結果を委ねることです。自分の願いを絶対化するのではなく、自分自身を神に委ねることが、信じて祈るということなのです。
第五に、祭司長たちは、イエスの権威がどこから来たのかを問いただしました。イエスが神殿で教えておられると、祭司長や民の長老たちが、「何の権威によって、これらのことをしているのか」と尋ねました。彼らは真理を知るためではなく、自分たちの許可なく神殿で行動するイエスの権威を否定するために質問したのです。
イエスは、ヨハネのバプテスマは天から来たものか、人から出たものかと問い返されました。彼らは、どちらが真実であるかを考えず、どちらと答えれば自分たちに不利にならないかを相談しました。「天から」と答えれば、なぜヨハネを信じなかったのかと問われます。「人から」と答えれば、ヨハネを預言者と認めている群衆を恐れなければなりません。そこで彼らは、「分かりません」と答えました。
本当は分からなかったのではありません。ヨハネの権威を認めれば、ヨハネが証言したイエスの権威も認めなければなりません。真実を認めれば自分たちが悔い改めなければならないので、答えようとしなかったのです。彼らにはすでに十分な光が与えられていましたが、従いたくないために、それを認めなかったのです。彼らは神よりも群衆を恐れ、真理よりも自分の立場を守ろうとしました。
イエスが答えを拒まれたのは、御自分の権威を説明できなかったからではありません。人は時に、真理を知るためではなく、従わない理由を作るために質問します。問題が証拠の不足にあるのではなく、自分の主権を手放したくない心にあるなら、どのような説明を与えられても信じません。
第六に、二人の息子のたとえは、口先の信仰と、悔い改めて従う信仰の違いを示しています。父親が最初の息子に、ぶどう園へ行って働くよう命じると、息子は「行きたくありません」と答えました。しかし後になって思い直し、働きに行きました。もう一人の息子は、「行きます」と答えながら、実際には行きませんでした。
最初の息子は、取税人や遊女たちを表しています。彼らのそれまでの生活は、神に対して「行きたくありません」と言っているようなものでした。しかし、ヨハネの言葉を聞いて悔い改め、神の国へ入りました。第二の息子は、祭司長や長老たちを表しています。彼らは礼拝と宗教的な言葉によって神に「行きます」と答えているように見えましたが、神が遣わされたヨハネを信じず、御子にも従いませんでした。
悔い改めとは、ただ罪を悲しんだり、反省した気分になったりすることではありません。神に背を向けていた者が向きを変え、神の言葉を信じて従うことです。いかなる過去の罪も、悔い改めた者を御国から締め出すことはできません。しかし、形式的な宗教生活をしているというだけで、悔い改めて神に従わない者が御国に入れるわけでもありません。
しかも宗教指導者たちは、取税人や遊女たちがヨハネの言葉を信じ、生活を変えられたのを見ても、後になって悔い改めませんでした。他の人に現れた神の恵みを見ても、自分の誤りを認めようとしなかったのです。御国の実とは、立派な言葉を口にすることではなく、悔い改めて御子を信じ、実際に神に従うことです。
第七に、悪い農夫たちのたとえは、神の忍耐と、御子を拒む者への裁きを示しています。主人はぶどう園を造り、垣根を巡らし、酒ぶねを掘り、見張りやぐらを建てて、農夫たちに貸しました。主人は必要なものをすべて備え、収穫の時に、その実を受け取ろうとしました。
このぶどう園は、イザヤ書5章を背景としており、神が恵みを与えて育ててこられたイスラエルを表しています。農夫たちは、その民を委ねられた宗教指導者たちです。主人が遣わしたしもべたちは預言者たちであり、農夫たちは彼らを打ちたたき、殺し、石で打ちました。神は繰り返し預言者を遣わして悔い改めを求められましたが、イスラエルの指導者たちは彼らを拒みました。
最後に主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと言って、愛する息子を遣わしました。しかし農夫たちは、「あれは跡取りだ。殺して、その相続財産を手に入れよう」と相談し、息子をぶどう園の外に追い出して殺しました。これは、宗教指導者たちが神の御子をエルサレムの外で殺そうとしていたことを示しています。彼らは神の民と神殿を自分たちの所有物のように扱い、真の相続者である御子を退けることによって、自分たちの権威を守ろうとしました。
「息子なら敬うだろう」というたとえの表現は、父なる神が御子の拒絶を予想していなかったという意味ではありません。十字架は、人間の拒絶によって生じた予想外の失敗ではなく、神が永遠の昔から定めておられた救いのご計画でした。神は、御子が拒まれ、殺されることをただ予見しておられたというだけではありません。御子が罪人の身代わりとして死に、復活することを、救いを成し遂げる道として定めておられました。
祭司長たちの拒絶、ユダの裏切り、ローマによる処刑は、いずれもそれを行った人間の罪であり、彼らには完全な責任がありました。しかし、その罪深い行為も神の主権の外で起こったのではありません。神は彼らに罪を犯させたり、その悪を正しいものとされたりしたのではありませんが、彼らが自ら望んで行った悪をも御手のうちに置き、それを通して御子による贖いを成し遂げられました。十字架には、人間の罪の深さと、神の主権による救いのご計画が同時に現れているのです。
イエスが、主人はこの農夫たちをどうするだろうかと尋ねると、宗教指導者たちは、「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼし、収穫の時には収穫を納める別の農夫たちに、ぶどう園を貸すでしょう」と答えました。彼らは、自分たち自身に下される裁きを、自分の口で言い表したのです。
第八に、人に捨てられた御子は、神によって救いの礎とされました。イエスは詩篇118篇から、
「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」
と引用されました。
群衆が「ホサナ」と叫んだ言葉も、この詩篇118篇から取られています。人々に拒まれた王は、十字架で終わるのではありません。家を建てる専門家たちが役に立たないものとして捨てた石を、神が建物全体を支える最も重要な石とされたように、宗教指導者たちに拒まれたイエスを、神は死者の中からよみがえらせ、救いの唯一の礎とされました。
キリストは、信じる者にとっては救いの礎ですが、拒む者にとっては裁きの石です。この石の上に落ちる者は砕かれ、この石が上に落ちれば粉々にされます。人はキリストを自分の判断によって評価し、受け入れるかどうかを、安全な場所から決められるわけではありません。すべての人が、この方を受け入れたかどうかについて、責任を問われます。
イエスは宗教指導者たちに、
「神の国はあなたがたから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民に与えられます」
と言われました。この「あなたがた」とは、直接には祭司長やパリサイ人たちです。しかし彼らは単なる個人ではなく、御子を拒んだ当時のイスラエル、特にその宗教的指導者と神殿体制を代表していました。したがって、この裁きは指導者だけに限定されず、彼らに従って御子を拒んだ当時のユダヤの民全体に対する歴史的な裁きという面を含んでいます。
この言葉が語られてからおよそ四十年後の紀元70年、エルサレムと神殿はローマ軍によって滅ぼされました。これは、御子を拒み、実を結ばなかったその世代と、神殿を中心とする宗教体制に対する、歴史上の裁きでした。
しかし、これはすべてのユダヤ人が一人残らず御子を拒んだという意味でも、神が民族としてのイスラエルを完全に、永遠に捨てられたという意味でもありません。イエスも使徒たちもユダヤ人であり、最初の教会は、イエスを信じたユダヤ人たちによって形成されました。ローマ11章で語られているように、常に、恵みによって神に選ばれたイスラエルの残りの者がいました。さらに、聖書は、異邦人信者に対して誇らないよう警告するとともに、イスラエルが再び接ぎ木され、救われる時について語っています。
御国は、民族的な血筋や宗教的地位によって人間が所有できるものではありません。それは、主イエスを信じるユダヤ人と異邦人から成る、御国の実を結ぶ民に委ねられました。しかし教会も、自分たちには御国が保証されていると高慢になってはなりません。御国を受け継ぐのは、人間的な特権を誇る者ではなく、御子を信じ、その信仰の実を結ぶ者だからです。
つまり本章は、王であるイエスを口先だけで迎えるのではなく、悔い改めて信じ、御国の実を結べと語っています。宗教的な知識、礼拝への出席、正しい信仰告白、教会での立場は、それ自体として大切なものです。しかし、それらが悔い改めと信仰と従順を伴わないなら、葉だけを茂らせたいちじくの木になり得ます。
一方、過去にどれほど神に背いていた者でも、取税人や遊女たちのように、神の言葉を信じて悔い改めるなら、御国に迎えられます。子どものように自分の立場を捨て、神の御子を喜んで受け入れる者の口には、神への賛美が与えられます。
人に拒まれたイエスは、神によって救いの要の石とされました。この方の上に自分の人生を建て、全能で真実な神に祈り、御言葉に従って、義とあわれみの実を結ばなければなりません。王は柔和に来られましたが、実を結ばない信仰を裁かれます。御国の王を受け入れ、その御支配に従い、御国の実を結ぶことが、本章の求めている応答なのです。
聖書本文

21:1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
21:2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
21:3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
21:4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
21:5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
21:6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、
21:7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
21:10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
21:11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
21:14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。
21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
21:17 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
21:18 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。
21:19 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
21:20 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。
21:21 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。
21:22 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
21:23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
21:24 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。
21:25 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。
21:26 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。
21:27 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。
21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
21:33 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
21:34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。
21:35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。
21:36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。
21:37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。
21:38 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。
21:39 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。
21:40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。
21:41 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。
21:42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。
21:43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
21:44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
21:45 祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、
21:46 イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
