札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「自ら先立たれる神」 使徒の働き 第11章1-18節

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百人隊長コルネリウスに洗礼を授けるペテロ  フランチェスコ・トレヴィザーニ

 

さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、

「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。

そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。

「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。

そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。』と言う声を聞きました。

しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』と言いました。

すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』というお答えがありました。

こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。

すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。

そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家にはいって行きました。

その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。

その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます。』と言ったというのです。

そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。

私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。

こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」

人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。

 

 

 この御言葉には、ローマ軍の百人隊長コルネリオと、その家族や友人たちの救いの出来事とその顛末について、前の章に引き続き記されている。このことは、「使徒行伝」の中で非常に多くの分量を割いて、詳しく記されている出来事である。ペテロが神からの幻を見て、「神がきよめたものを「きよくない」と言ってはならない」と言われたこと、コルネリオが、ペテロを招いて主イエスの救いについて語ってもらうようにと天使から告げられたこと、そしてペンテコステの日に使徒たちの上に聖霊が下ったのと同じように、異邦人であるコルネリオたちの上にも聖霊が下り、彼らは異言を語って神を賛美したことが、念を押すかのように、繰り返し記されている。このことは、生まれたばかりのキリスト教会にとって、それほどまでに重要な意味を持つ出来事であったことがここに表われている。

 

 現代に生きる私たちは、キリストの福音が世界中に広がり、あらゆる民族や国家の壁を超えて信仰されていることを当然のこととして受け取りがちであるが、このことは初代教会の時代から当然のことだったわけでは全くない。生まれたばかりの教会の信徒たちは、十二使徒をはじめとして、皆がユダヤ人だったのであり、彼らは旧約聖書の律法により、異邦人と交流し、その文化や習俗に染まることを厳しく戒められており、特に主なる神への信仰における純潔を保つように厳しく命じられていたからである。そのため、律法と信仰との関係、すなわち、ユダヤ人も異邦人も主イエスを信じればそれだけで救われるのか、あるいはまずユダヤ教に改宗して律法を遵守し、割礼を受け、その上で主イエスを信じなければならないのか、このことは意見を二分する、未解決の重大問題であった。したがって、「ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。(2-3節)」というのはある意味で当然のことであり、正当な理由のないことではなかったのである。

 

 これに対してペテロはどのように対応しただろうか。ここでペテロは何が起こったのか、その事実だけを述べている。自分はこうあるべきだと思う、というように、自分の願いや意見を主張したのではない。律法によって食べることを禁じられている生き物が天から下ってきて「ほふって食べよ」と告げられる幻を見たこと。コルネリオも、ペテロを招いて神の言葉を語ってもらうようにと天使から告げられたこと。そして、ペテロが主イエスの福音を語りだすと聖霊が下って、コルネリオらの異邦人たちも異言を語って神を賛美したこと。この事実を告げ、「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう(17節)」と述べたのである。

 

 聖書に啓示された真理、神の救い、キリストの福音とはこのようなものである。人間が思索をして、世界とはこうであるはずだ、人間はこうでなければならない、だからこう信じることにしよう、と決めたというものではない。そうであれば、それは人間の思想であり、哲学であり、道徳にすぎない。これに対して、聖書が示す信仰の道においては、「はじめに神が天と地を創造された。(創世1:1)」また、「はじめに言葉があった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1章)」とあるように、初めから存在された唯一の方、生きて働き給う全能の神が、まず出来事を起こされ、それによって有無を言わせぬ明確さで御心を示される。そして、私たちは神の主権のもとに、神の働きかけによって、信仰と従順を与えられるのである。

 

 アブラハムが自分から「私は故郷を後にして、新しい地に行こう」と考えたのではない。神の側からアブラハムに現れ、神の永遠のご計画の一部として、彼の人生に対する神のご計画に従うようにと、神がアブラハムをお召しになったのである。また、主イエスの弟子たちは誰一人として、罪の身代わりとなって死んでよみがえられる救い主など、予想することも理解することも出来ず、自分勝手な世俗的メシア像をそれぞれ心に思い描いていた。その結果、主イエスが十字架で死んでしまわれるとすっかり絶望してしまい、ユダヤ教の指導者達や官憲を恐れて隠れ潜んでいた。しかし、そのような彼らに、復活の主イエスが現れ、復活の御身体を示し、真の信仰を与えられたのである。さらに、ペンテコステの日以降に主イエスを信じる者の数が爆発的に増え広がっていったのも、人間の発案と計画によるものでは決してない。主イエスのご命令にしたがって祈り続けていた弟子たちに聖霊が下ると同時に彼らは異言を語りだし、そこへ驚いて集まってきた人々を皮切りに、神の救いの御言葉が、しるしと不思議を伴って増え広がって行ったのである。そこに人間の計画や人間の発案が入り込む余地は全くない。そして、この時も、弟子たちが議論をして、異邦人も救われるということにしよう、と結論付けたのではない。神の主権の下に、明確な神の御業が先行し、弟子たちはただこの出来事を受け入れ従っただけなのである。

 

 このことは、私たち一人一人の人生の歩みについても同様である。私たちは自分の求道心や善良さや知恵や賢さや宗教的センスによって信仰を持ち、今日まで歩んできたのではない。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネ15:16)」と仰った。また、旧約聖書には、「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。(箴言16:9)」と記されている。私たちが人生の歩みの中で思い惑い、悩み立ち止まるような時には、私たちはこの真理を思い出し、熟考しなければならない。神の教会を、また私たち一人一人を創り、選び、召し出し、養い育て、ここまで導いて来られた方は、主なる神である。私たち人間が自分自身の知恵と力でそれをしたのでは決してない。そして、今日に至るまで御自分の永遠のご計画を成し遂げてこられた主は、その御業を必ず最後まで成し遂げて下さるであろう。聖書に

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)」

と約束されている通りである。私たちがこの確信を持って日々十字架を負い、主に従い続けることこそ、主が私たちに望んでおられる、私たちのなすべき務めなのである。

 

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46:3-4)」

 

「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない(申命記31:8)」

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