札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

教理説教 「神は全てのことを支配しているか」 ヨブ記42:1-6 ローマ人への手紙11:33‐36 

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 先日、キリスト教系の異端宗教の本を読む機会がありました。その本には正しくも、聖書に書かれている通り、神が世界を創造されたのであって、この世界の驚異的な精巧さと、そこに現わされた知恵を正しく知るなら、世界や生命が偶然できたなどという事はあり得ないことが分かる、と書いてありました。また、神は世界を正しく良い状態で創造されたが、アダムとエバがサタンの誘惑に乗った結果、世界に罪が入り込み、人間は、神の子供としての立場を失い、悪魔の子供となってしまったと、これまた正しくも、書いてありました。しかしその本には残念なことに、子なる神が人となって、信じる者の罪の身代わりに死なれたという事は間違いである、とはっきり書いてありました。イエス様の死と復活は事実であるが、それは神様の最善の御計画ではなかった、本来イエス様は死んではならなかった、そこで神様の御計画は挫折してしまった、というのです。神様は全てを支配している何でもできる神様ではない。神様の本来の御計画は、人間がイエス様を十字架にかけてしまったために失敗してしまった。神様は苦しみ、悲しんでおられる。だからこれこれの活動をして、失敗した神様の御計画を成功へと導いてあげなければならない。イエス様にもできなかった事をするなんて、傲慢に聞こえるかもしれないが、そうしなければならないし、そうできるのだ。そのようにその本は主張していました。

 

その本には、イエス様の十字架の死が神様の御計画ではない根拠は、「人間には自由意志があるから」と書かれていました。人間はロボットではなく、自分のすることを自分で選択し、決断するのであって、自分がしたことの責任を問われる(確かにその通りです)。そして、ユダヤ人がイエス様を十字架につけて殺したのは罪であった(それもその通りです)。だとすれば、イエス様が十字架で死ぬことが、父なる神の御計画であり、不可欠な事であった、というのは、どう考えても矛盾だ、というのです。あなたはどうお考えになりますか。この主張に、どうお答えになるでしょうか。

 

この主張は、人間の常識のみを土台とするなら、完全に正しいのであり、どこにも穴はありません。この主張に対して正しく反論するには、聖書は誤りの無い神の啓示であるという前提に立った上で、聖書には人間の責任と神の支配の両方が語られており、どちらを否定するのも、聖書に啓示された完全な真理を歪曲することになることを指摘する他はありません。人間の責任を否定する者は、全てが予め決定されており、人間に出来ることは何もないという宿命論、決定論に陥り、生きる意欲と責任感を喪失することになります。一方で、神は人間の選択をも含めた全てを、摂理の内に支配し、御自分の計画を確実かつ完全に成し遂げる方である事を否定する者は、心を痛めながら為すすべもなく人間の行いを見ているだけの、善意にあふれてはいるものの、無力で感傷的な偽りの神を創り出すことになり、神の真の姿を偽り歪めるという恐るべき罪を犯すことになります。

 

神の支配と人間の責任、この二本の柱は聖書で共に強調されていますが、それは私たちの目の届かない遥か天上で交わっています。この二つがどのように矛盾なく両立するのかは、少なくとも天国に行くまでは、人間が理性によって理解し尽くすことは出来ず、ただ信仰によって受け入れることができるだけです。どちらも無視あるいは軽視してはなりません。人はその持って生まれた気質や、思想的傾向や、時代精神といったものによって、一方のみを強調し、一方を無視するようにと誘惑されますが、どちらを軽視してどちらの脇にそれても、落とし穴が待ち受けています。

 

聖書を曇りのない目で正しく読むなら、人間の意志と神の摂理的支配が共に語られ、両立していることは、非常に多くの個所に見出されます。

 

例えば、ヨセフがエジプトの大臣となるという、夢で予告された神の計画が、人間の意志や行動をも支配する神の摂理なくして実現できたでしょうか。絶対に不可能です。それは、人間の目には偶然としか見えない、多くの出来事の積み重ねの結果でした。シェケムで羊を飼っていた兄たちは、なぜドタンに行ったのでしょうか。なぜルベンは、ヨセフを殺すな、穴に投げ込むだけにせよ、と言ったのでしょうか。なぜエジプトへ向かうミデヤン人の商人たちが、ちょうどそこを通りかかったのでしょうか。なぜユダは、ヨセフを売ろうと兄弟たちに言ったのでしょうか。なぜルベンはその時、席を外していたのでしょうか。なぜミデヤン人の商人は、エジプトの侍従長にヨセフを売ったのでしょうか。なぜ侍従長の妻はこれほど情欲に満ちているのでしょうか。なぜ彼女は冤罪をでっちあげたのでしょうか。なぜ侍従長は妻の嘘を信じたのでしょうか。なぜ侍従長は、ヨセフへの罰として投獄を選んだのでしょうか。なぜファラオの二人の僕は、投獄されるような罪を犯したのでしょうか。なぜファラオは、彼らをヨセフと同じ監獄に入れたのでしょうか。なぜ献酌官長は、釈放された後、ヨセフの事を忘れてしまったのでしょうか。なぜファラオは、ヨセフを大臣に任命したのでしょうか。これらは全て、ヨセフがエジプトの大臣になることによってエジプト移住と出エジプトへの道備えをさせるという神の御計画の実現のために必要な鎖の輪であって、そのどれが欠けても、神の御計画は挫折してしまったことでしょう。

 

そして、これは極めて重要な点ですが、これらは全て、人の意志、人の選択に関することであって、自然現象や物理現象ではありません。ミデヤンの商人たちがいつ、どのようなコースで旅をするか、兄たちがヨセフを商人に売るかどうか、商人がエジプトでヨセフを誰に売るか、侍従長の妻がヨセフを誘惑するかどうか、ヨセフに逆恨みをした結果どのような行動に出るか、侍従長がヨセフを投獄するかどうか、ファラオが罪を犯した僕をどのように処罰するか、こういったことは全て、人間の選択、人間の意志に属する事柄です。もし、人間の意志は文字通りの完全な自由意志であり、神の支配からも独立していて、神もそれに対してはどうすることもできない、という考えが正しければ、どうでしょうか。ヨセフがエジプトの大臣になったのは、神の御計画でもなんでもなく、神ご自身も驚くような、偶然の積み重ねの結果もたらされた、驚くべき幸運だったということになるでしょう。そして、「今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。(45:8)」という言葉は何の意味もない戯言となってしまうでしょう。

 

イサクの嫁探しの記事にも、人間の選択と神の支配の両立を、はっきりと見て取ることが出来ます。旅を続けて、ナホルの町の水飲み場に着いた、アブラハムの僕(しもべ)の祈りには、私たちの常識を超えた要素があります。彼は、「もしその娘が、『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。」と祈ったのです(創世記24:14)。

 

常識的に考えれば、おかしなことです。目の前の娘がイサクの花嫁にふさわしいかどうかという重大問題を、そんなことだけで判断してしまっていいのでしょうか。普段はどんなに親切な娘であっても、時には疲れていることも、機嫌や体調が悪くて、親切にできないこともあるでしょう。逆にイサクにふさわしくない娘であっても、何かの気まぐれや不純な動機で親切にしてくれることもあるでしょう。この時、アブラハムの僕は、ただ一時の応答だけで全人格を判断するような、木を見て森を見ずの過ちを犯そうとしていたのでしょうか。

 

決してそうではありません。彼は、「『神がイサクの為に定めている結婚相手』が存在し、もし目の前の娘がそれであるならば、神はこの娘の意志をも支配して、水を飲ませるように行動させることが出来る」という信仰をもって祈ったのです。そして神がそうして下さったことを聖書は記しています。そこには神の御計画に基づく神の御支配があったのです。人間の自由な選択の結果、たまたまそうなったのではなく、神の御計画に基づいた必然が実現したのです。

 

それでは、リベカの意志は無にされたのでしょうか。リベカは、本当は水を飲ませる気などないのに、口が勝手に動いて「いいですよ」と答え、意志に反して身体が勝手に動いて、僕とラクダに水を飲ませてしまったのでしょうか。決してそうではありません。彼女は自分の意志で僕に親切に答え、水を飲ませることを自分で決めたのです。また、リベカは、「この人と一緒に行くか」という父の問いに対して自分の意志で「はい。まいります(24:58)」と答えています。自分の意志に反して口が勝手に動いたのでも、いやいや同意させられたのでもありません。しかし、同時に、彼女の父と兄は、「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません(24:50)」と、全てを支配され、御計画を必ずなしとげられる神の摂理の働きを感じ取っていることが記されています。神の支配と人の意志、双方が語られているのです。

 

また、主イエスがベツレヘムで降誕されることは、神の永遠の定めであり、御計画でありました。ミカ書に

 

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(5:2)」

 

とある通りです。神が永遠の昔からベツレヘムでの誕生を定めておられたのであって、(アルミニウス主義が言うように)人間の自由意志による成り行きの結果、たまたまそうなることを神が予知しておられた、というのではありません。永遠の昔から、神がそのように望まれ、定められたと記されています。そして図らずも、絶妙のタイミングで、皇帝アウグストが、全住民は故郷に帰って人口登録をするようにとの勅令を出しました。この勅令が無ければ、ヨセフは身重の妻を連れてベツレヘムまで旅をしようなどとは夢にも思わなかったでしょう。

 

しかし、なぜこのタイミングで勅令が出されたのでしょうか。なぜ現住所で登録させず、帝国の全住民に多大な面倒をかけてまで、生まれ故郷へ帰らせるのでしょうか。それは皇帝がそのように望み、そう決めたからです。そうするようにと夢の中でお告げを受けたのでもなければ、自分の意志に反して勝手に口が動いて勅令を出したのでもありません。それは皇帝アウグスト自身の意志であり、決断でした。しかし同時に、そこには神の支配があり、皇帝は自覚せずに、神の永遠の御計画を成し遂げるために、神の御心に従って動かされていたのです。箴言に

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(21:1)」

と記されている通りです。

 

また、偶像礼拝を続ける背教のイスラエルとユダに対する罰として、神はアッシリアとバビロンを起こして強大にし、イスラエルとユダを侵略させ、滅させました。さらに、神はペルシャ王クロスを起こして強大にし、預言された定めの時に、バビロンを滅ぼさせ、ユダの民を解放して故郷へと帰還させました。聖書に親しんでいるクリスチャンであれば誰もが知っているおなじみの歴史ですが、神が人間の意志を支配できないのであれば、どうしてそのような事が可能でしょうか。神に出来るのは、国を興すように、侵略するように、解放するように、と王の心にけしかけるだけで、最終的に、王が神の預言の通りに動くかどうかは、あくまで王が自由意思によって決めることであって、王はたまたま神の計画通りに動いてくれたということなのでしょうか。もし王が神の計画の通りに行動しなければ、神の預言は外れ、神の御計画は頓挫し、神は次善の策、プランB、二の矢、三の矢を用意しなければならなかったのでしょうか。(先ほどの異端の本には、「聖書にはイエス様が十字架にかかる預言と、イエス様が十字架にかからない預言と、両方が記されている」と書かれていました。)

 

そんなことは絶対にあり得ません。王も将軍も大臣も、神の御支配の中で、神の御計画を実現するように考え、決断し、行動したのです。しかし、彼らの意志は無にされ、ロボットのように無理矢理行動させられたのではなく、それは彼らの意志による決断であり、最後の審判においては、その行いに対する責任を神から問われるのです。

 

この、神の支配と人間の責任の両立という神秘はイザヤ書に明確に記されています。

 

ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。

わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。

しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。

なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。

主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。

それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。

それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう(10:5-16)。

 

このような実例は枚挙にいとまがなく、旧約聖書のエステル記には、神や祈りと言った言葉は全く記されておらず、一見ただ人間たちの意志のみによって全ての物事が展開して行くように見えますが、その裏で、人間の意志をも導いて、悪を抑制し、罰し、御自分の御計画を成し遂げられる、神の目に見えない摂理的な支配が、重要なテーマとして記されています。

 

神の御計画の最も大切な核心部分は、勿論、主イエスの十字架の死です。主イエスを十字架につけたのはユダヤ人の指導者たちの悪意から出たことですが、それは世界が創造される前からの神の永遠の御計画の必然的な成就でした。(エペソ1:9-11,使徒4:27-28)。

 

また、聖書の記者たちは自分の願いと意志で、自分が書くべきだと考えたことを記したのですが、それは同時に、聖霊が、聖書記者たちを用いて、人間が知るべき真理を、誤りも過不足もなく記させたのです(第二テモテ3:16,17)。

 

また、現在の聖書66巻が正典として選ばれたのも、歴史の中で、様々な論争や紆余曲折を通して徐々に為されたことです。教皇のような誰かに、この巻を選ぶべしと神からのお告げがあって、鶴の一声でトップダウン的に決まったのではありません。しかしその過程には神の摂理による完全で確実な御支配があったと確信するからこそ、現在の66巻を、他のいかなる書とも全く異なる神の言葉として、私たちは信じ受け入れているのです。

 

神は人間に自由を与え、思いのままに振舞わせているように見えながら、人間を支配し、その御計画を実現させることがおできになる。このことは三位一体と同じく、人間の理性においては理解し尽くすことのできない神秘ですが、摂理論と呼ばれる、聖書の明言する重要な奥義の一つであって、この土台無しには、聖書を正しく理解することは出来ません。神の支配は常に100%であり、同時に人間の責任も100%なのです。神が人間の罪や弱さに譲歩し、その行いを許容することはあっても、人間が(また悪魔や悪霊も)神の意志に対抗して、その支配を打ち破ることは出来ません。神の摂理的支配を受けないという、そのような意味においては、自由意志というものは存在しません。神が実現させようと決められたことは必ず実現し、神がお許しにならないことは決して起こりません。しかし同時に、神の支配のもとで生かされているいかなる者も、最後の審判の座で、どのように生きたのか、責任を問われることを免れることは出来ないのです

 

この真理を正しく把握することが重要なのは、それが私たちの日常の信仰生活に大きな影響を与えるからです。私たちが日々生活する中で、様々な出来事が起こって私たちに影響を与えます。しかし、その出来事とは、他人の行いや言葉から発するものがほとんどです。私たちの上に起こる出来事のほとんどは、人を通して来るのです。他人の意志や選択や罪や失敗によって、私たちに日々様々なことが起こり、影響を受ける、と言ってもいいでしょう。

 

もし、人間の行いが、文字通りの完全な自由意志によるのであって、神の支配を受けないのであれば、どうなるでしょうか。その場合、他人があなたに何をするか、何を言うか、どんな態度をとるか、どんな失敗をするか、どんな罪を犯すか、こういったことに関しては、神にもどうすることもできないことになります。生活のほとんどを占める、他人を通して起こる出来事について、神にもどうすることもできないことになります。なぜならそれは神にも立ち入ることのできない、人の自由意志に属する事柄ということになるからです。

 

私たちには、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」

 

という、私たちが生涯の土台とするに足る、偉大な約束が与えられています。これらの約束は、「他人があなたに何をするかについては神にもどうすることもできないが、それがあなたにとって益となるように、後から神はできるだけのアフターケアやフォローをして下さる」という意味に過ぎないのでしょうか。

 

そんなことはあり得ません。この約束は、「他人があなたに何をするか、何を言うか、どんな態度をとるか、どんな過失や罪を犯すかを含めて、神は全ての事を支配し、あなたにとっての最善を取り計らって下さる」という意味に他なりません。勿論それは、神の御言葉に従って正しく生きる義務と責任を、私たちから取り去るものではありません。私たちが為すべきことをしなくても全てはうまくいくとか、私たちにとって都合のいい事だけが次々に起こるなどという意味ではありません。起こっている事は全て正しいのだから、どんな場合にも抵抗せずに無条件で甘受せよ、という意味でもなく、神の完全な正義が実現するのは、主イエスの再臨と最後の審判の後であるという真理を否定するものでもありません。それは、私たちが神の栄光のために生きようとする時、私たちがキリストの似姿に変えられて神の栄光をあらわすようになるため、文字通り全ての事を支配して、最善に整えて下さるという意味なのです。そこには自分の責任に向き合う厳粛さと、神の完全な支配に委ねる安心感という一見正反対のものが、不思議に結合し、一つになっています。神の支配と人の責任の両方を100%信じるのでなければ、そのような、健全で心安らかな信仰に生きることは出来ません。

 

さらに、この真理を正しく把握することが重要であるもう一つの理由は、そのことが、私たちの神観、すなわち、私たちが神をどのようなお方と考えるかを根本的に左右するからです。

 

今まで見てきたように、神は人間に自由と責任を与えながらも、同時に摂理によって全てを支配することがおできにあり、また常にそうしておられる事が、聖書にこれほど明瞭に記されているにもかかわらず、現代においてはしばしば、人間の自由意志のみが強調され、神の主権と支配については強調されず、あまり語られることがありません。何故でしょうか。

 

そのような傾向を後押しする理由としては、支配や権威というものに対する反抗が、恥ずべきこととされずにむしろ持て囃されるような時代精神も大きいですが、それに加えて、その最大の理由は、神が全てを支配しているとは到底思えないような悪が、現実にしばしば起こるからです。災害、疫病、飢餓、独裁、圧制、侵略、弾圧、差別、搾取、詐取、偽証、冤罪、虐待、虐殺、強姦、いじめ、など、こういった悪は、人類の歴史を通して、世界中のあらゆる場所で、数えきれないほど起こってきたことであり、今も起こっていることです。これらの事についての、「それは人間が為したことであり、神に責任はありません」という答えは確かに事柄の一面を正しく説明してはいます。罪と悪と死が世に入り込んだのはサタンの誘惑を受け入れたアダムとエバの堕罪ゆえであり(ローマ5:12)、神は罪の創始者ではなく、神は御自分で悪へと誘惑することの決して無い方だからです(ヤコブ1:13)。

 

しかし、それだけでは一面的な、不完全な答えに過ぎません。人間の自由意志と神の主権的支配が両立することをそれと同時に語ることが無ければ、「これらの悪は人間の自由意志が為したことだから、神にもどうすることもできないのだ。神もただ、悲しんで見ておられるしかないのだ」という誤った結論を示唆することになり、神についての真実が歪められ、神の栄光の御名が汚されることになります。以前、教会から長年離れている、あるクリスチャンの方と会って話す機会がありました。その方は、この世の悪を列挙して「なぜこんな事が起こるのか、いや、神にもどうすることもできないのだ」と、ためらいがちに、悲しそうに言いました。そうなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。全能の主権者である神は、天地創造以来、今までに起こったどのような出来事であっても、御心であればそれが起こらないようにすることが出来たのです。「神のお許しなしには雀の一羽ですら地に落ちる事は無い」と、主イエスは断言しておられる通りです。それとも主イエスのこの御言葉は、(ただし人間の自由意志が関係する事柄は除く)との条件付きなのでしょうか。そんな事は決してあり得ません。

 

神はエステル記にある通りに、摂理の御手をもってユダヤ人を絶滅から救われました。しかし、歴史上には、救い出されずに不当に虐殺され、根絶やしにされてしまった民族も少なからずいたことでしょう。神は摂理の御手をもって彼らを助けることもおできになりましたが、そうはなさいませんでした。どうしてなのかは、神のみがご存じです。

 

神は摂理の御手をもってヨセフを奴隷の身分から解放し、エジプトの大臣とされました。しかし、歴史上には、ヨセフと同じように不当に奴隷に売られ、あるいは冤罪で投獄され、そのまま一生を終えた者も少なからずいた事でしょう。神は摂理の御手をもって彼らを助けることもおできになりましたが、そうはなさいませんでした。どうしてなのかは、神のみがご存じです。

 

ヘロデの剣から幼子イエス様を守られた父なる神は、ベツレヘム近辺の幼子をも守ることも、容易くおできになりましたが、そうはなさいませんでした。どうしてなのかは、神のみがご存じです。

 

主イエスは、シロアムの池で四十年間、病にふせっていた男に「よくなりたいか」と語られ、彼をお癒やしになりましたが、その後、他の病人たちにも同じように語り掛けることはなさらず、その場を立ち去られました。どうしてなのかは、神のみがご存じです。

 

聖書には、私たちがイエス様を信じる事が出来たのは、天地の基の置かれる前から、神の御心の内に選ばれ、救われるように定められていたからだと書かれています(エペソ1:4‐5)。それならば神はなぜ、全ての人を選んでくださらなかったのでしょうか。どうしてなのかは、神のみがご存じです。

(一方で「信じない者は、神の御心の内に、滅びるように定められていた」とは、聖書のどこにも書かれていないことは、留意すべきことです。そのように主張する「二重予定説」は、人間の勇み足、行き過ぎというものでしょう。私たちは、聖書の語るところまでは行かなければならず、また同時に、聖書の語るところを超えてはならないのです。)

 

これらの悪の根本原因として、人間の罪が存在することは、疑い得ない事実です。しかし、それは一面的な解答にすぎません。全能の主権者であられる神が、摂理的支配のうちに、ある悪に対しては対処されるが、ある悪に対してはそうなさらず、見過ごしにしておられるように見えるのは何故かという問題は、それとは全く別の問題だからです。

 

 

この問題に対する信仰者の側の応答は以下の五つに大別されます。あなたはどの道を歩んでいるでしょうか。

 

一つ目は、深く追求しない道です。この世の悪や不公平や不条理に対して問題意識を持ち、そのような事を許しておられる神に漠然とした不満を持ちながらも、自分の思いに真摯に直面して、それを神の前に持ち出して激しく迫り訴えることもせず、ただ、熱くもなく冷たくもなく、だらだらと惰性で、神とつかず離れずの無難なお付き合いを続ける、ヨブやハバククとは正反対の、生ぬるい者たちの道です。

 

二つ目は、問題のあることを否定する道です。不公平、不条理に見えるのは実は見かけだけのことで、実は人が受ける苦しみの大きさは、その人が犯した罪の大きさに正確に比例しているのだ、因果応報なのだ、そう考えて自分を納得させる道です。ヨブの友人たちがこの道を行き、そして神について真実を語らなかったと、神からの叱責を受けました。

 

三つめは、神の全能の支配を否定する道です。神は善意にあふれた愛の方ではあるが、全能ではないのだ、あるいは全能ではあってもそれは自然界や物質世界に限られた話で、人間の意志や選択の領域に関しては神も支配することは出来ないのだ、とするアルミニウス主義的な道です。確かに、この道を行くなら、「なぜ神がこのような事を許されるのか」という知的葛藤からは解放されるでしょう。「それは人間がやった事で、神の責任ではありません。人間の意志は自由意志なので、神にもどうすることもできません。」と言えばいいからです。しかし、その結果そこに現れるのは、聖書に語られた真の神ではありません。私たちの理解を超えていたり、私たちの気に障ったりすることは何もなく、私たちの考える「愛」の枠内に完全に収まり、被造物の不従順にいつも心を痛めながら世界を見ているだけの、心優しいが、無力な紛い物の「神」にすぎません。その結果、救いにおける神の絶対的主権や人間の絶対的な堕落、一方的な恵みの不可欠性といった真理は無視され、人間の道徳的努力による自力救済論へと傾くことになります。トルストイや有島武郎といった理想主義的な文学者たちがこの道を行きましたが、行きつくところは絶望でした。その神とは聖書に啓示された真の神、全能の救い主かつ支配者ではなく、要するに、理想を教えてその後は見守ることしかできない道徳的教師に過ぎないからです。前述した異端宗教を信じる人々も、この道が聖書に反する偽りの道であることを認めて引き返さないなら、いずれ同じ所へ行きつくでしょう。

 

四つ目は、神の善と愛と正義を否定する道です。神は全能ではあるが、善でも愛でも正義でもなく、不公平で、気まぐれな方なのだ、あるいは、神の善や愛や正義とは、私たちの考えるものとは根本的に全く違ったものであって、理解不能なものなのだ、とする道です。これは要するに、全能の悪魔を信じるというのと同じことであって、人を虚無や絶望や発狂や破滅へと導く道です。少なくない哲学者や文学者や神秘主義者が、この道を行きました。

 

五つ目は、神は全能であり、かつ善であり愛であり正義であるが、私たちがその事をいつも完全に見て取ることが出来ないのは、私たちの小ささと罪深さによるということを、信じ悟る道です。ヨブやハバククや詩編73篇の記者は悩みと疑いと葛藤の中で神に祈り、訴え、すがり続けた結果、ここにたどり着きました。神は私たちの願いを遥かに超えて、善い方、愛の方、正義の方です。そして常に全てを支配しておられる聖なる全能者、大いなる畏るべき方です。無力なのでも、邪悪なのでも、気まぐれなのでも、怠惰なのでもありません。しかし、神のなさることの完全さを理解し尽くすことは、少なくともこの地上においては私たちには出来ないでしょう。私たちの理性や理解力は小さく卑小であるばかりか、罪によってねじ曲がり、曇らされているからです。しかし、最後の審判においてあらゆる事に対する完全な裁きがなされた後、天国において、罪から解放され、永遠という視点から神のなさった事を振り返る事が許されるなら、神のなさることは常に完璧であり、時にかなって美しく、最善であったことを悟ることでしょう。

 

この最後の、五番目の道を歩む時にのみ、私たちは真の人生、真の平安、真の希望を見出すことが出来ます。私たちは自らの小ささ、罪深さ、卑小さを知り、全てを支配される全能者の元に身を低くし、その主権と支配を認め、この方に全てを委ね、信じ、従うべきなのです。

 

この問題は、現代において重要性を増しています。コロナウイルスを送ったのは神ではない、愛の神はそのような事はなさらないと、まことしやかに語る教師たちが世に多くいます。それはすなわち、神は全能ではない、神はパンデミックを望まれなかったにも関わらず、それを防ぐことが出来なかった、と言っているに等しいのです。彼らは自分の気に障ることのない、自分好みの、飼いならされた神をでっちあげた結果、聖書に啓示された、私たちの唯一の避け所であるまことの岩に背を向けたのです。

 

しかし、コロナウイルスの出所がどこであれ、全能の神はそれが流出し、世界中に拡散されることを防ぐことがお出来になりました。にもかかわらず、神はそうなさいませんでした。その意味で、コロナウイルスを送ったのは神であると言えるのです。現代は感傷的な甘い神観を抱いていてよい時代ではありません。都合のよい作り話で自分を慰めていてよい時代ではありません(Ⅱテモテ4:3‐4)。勿論、私たちはこのパンデミックを悲しみ、それを収束させてくださるように神に祈り、働き、行動するべきです。しかし同時に、神がこのことを許されたのは何故か、この事を通して私たちに何を語っておられるのかを私たちが正しく受け止め、それに従うことが出来るよう、へりくだって祈り求めるべきなのです。私たちもまた、この時代の艱難を通して、ヨブと同じように取り扱われ、練られ、きよめられ、へりくだらせられ、人知を超えた偉大な全能の支配者の前にひれ伏し、あがめる者と変えられるべきなのです。それこそが真の礼拝者への道、真の幸福と平安と生きる意味へと通じる唯一の道です。この終わりの時代にあって、真に求めるべき事が何であるのかを、私たちが悟ることができますように。

 

ヨブは主に答えて言った。

あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、誰か。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。

さあ聞け。私が語る。私があなたに尋ねる。私に示せ。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

(ヨブ記42:1-6)

 

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙11:33‐36)

 

推薦図書

ジョン・パイパー 「コロナウイルスとキリスト 未曾有の危機に聖書を読む」 いのちのことば社 渡部謙一訳

 

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