札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

メッセージ 「パンデミックと聖書の神」

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新型コロナウイルス感染症について、様々な言説が飛び交っています。BCGの接種が感染と重症化の予防に有効なのではないかという仮説が、ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授など、世界中の科学者から、検証の価値ありとみなされ、検証中だそうです。また、このウイルスは、自然に変異したものではなく、人工的に手を加えられた疑いがあり、武漢の研究所から漏れ出したものであることが疑われると、これもまた、ノーベル賞を受賞した、フランスの医学者、リュック・モンタニエ教授が最近発言して、物議を醸しています。クリスチャンとて、世界のこういった諸側面に対して、無関心ではありえません。クリスチャンもまた、科学的、医学的、経済的、政治的といった、あらゆる側面から、この問題の行く末に関心を持つべきです。そして、この疫病が封じ込められ、治療法が確立され、隠された事実があれば明らかにされ、元の平穏な世界が戻ってくることを願い、祈り求めるべきです。

 

しかし、クリスチャンにとっての第一の関心事は、そういった次元の事柄ではありません。クリスチャンにとっての第一の関心事は常に、「この事に関する神の御心は何か」「この事を通して神は私達に、何を語っておられるか」なのです。もちろん聖書は、あらゆる災いが、神が直接送られた物であるとは、語ってはいません。ノアの洪水や、荒野を40年間さまよったイスラエルの民への災いや、バビロン捕囚などのように、神から災いが来る場合も多くあります。しかし、全ての場合がそうなのではなく、ヨブの試練の場合のように悪魔から来たものであったり、ダビデの罪の結果、イスラエルの国が混乱したように、人間の罪過から来た災いであったりすることもあります。また、主イエスがシロアムの塔の事故に関連して語っておられるように、災いに会った人は常に、そうでない人に比べて罪が重かったからそうなったのだ、というわけでもありません(ルカ13:4-5)。しかしながら結局のところ、「恵み深い世界の統治者であられる神が、この事が起こるのを許されたのは何故か」という問いに直面しないわけにはいきません。その直接的な原因がどこから来たのであれ、この全世界的な疫病の流行は、神の御心のもとに、神が起こることを許された、その事を否定することはできません。そして、真のクリスチャンであれば、このような場合に、その御心を尋ね求め、それに応答したいとの願いを持たずにいられるでしょうか。

 

聖書はこう語っています。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の実前においてよいことであり、喜ばれることなのです。(Ⅰテモテ2:1-3)」ここには確かに、私たちが平安で静かな一生を送ることを神は望んでおられ、そのために国家と政府を定められたことが書かれています。

しかし、ここで、それは何のためであるのかに注目しなければなりません。一言で言えば、それは私たちが敬虔に生きるためなのです。敬虔とは何でしょうか。それは神が全世界の統治者、全人類の裁き主であることを認め、その御前に自分を低くし、その御心に従うことを心から願う姿勢に他なりません。つまり神が「平安で静かな一生」を与えてくださるとすれば、それは私たちが敬虔を追い求めるためであり、もし敬虔とは正反対のものを追い求めているとすれば、平安は取り上げられ、警告として、また罰として、神が平安と正反対の物をお与えになっても何の不思議もないのです。

 

16世紀ごろから、少しずつではありますがしかし確実に、人間による人間自身の賛美が強化されてきたことを歴史は記録しています。科学とは、元来、創造者なる神の英知を讃えるためのものとして始まったのですが、人間の科学的業績が増し加わるにつれて、それが、その本来の目的とは逆に、人間を高ぶらせ、自分自身を神からの独立者として感じさせるよう働いたのです。創造者は存在せず、万物の究極的原因は偶然であり、人間の進歩と幸福の増進は人間自身の力による、という進化論的世界観がそのような考えに哲学的基盤を与えています。現代において、多くの人々は自分自身を神からの独立者とみなしています。多くの人が神の存在を否定しています。聖書の神を信じると公言する人々の中でさえ、多くの人が、聖書の言葉を誤りのない権威あるものとしてありのまま受けとることをせずに、現代的価値観に一致しない個所や、厳しく感じられる個所を水増しし、骨抜きにして解釈しています。「神は愛です」ということだけを強調して、罪と記されていることを罪とせず、罪に対する神の怒りも死後の裁きも永遠の地獄の存在も信じず、聖なる天の父の実質を骨抜きにしています。そこに見られるのは、命じない神、統治しない神、裁かない神、罰しない神、いわば現代版の金の子牛、天のサンタクロースとも言うべき紛い物の神です。

 

イスラエルの民がアロンのもとで金の子牛を造って偶像礼拝をした時に、そこには欲望の賛美、性的な放縦と乱痴気騒ぎが伴った、と聖書には記されています。現代においても、人々が聖書に記された聖い神を否定するにつれ、唯物主義的な幸福観や貪欲が増し加わり、生命倫理や家族の倫理や性道徳は廃棄され、結婚外の性交渉が当然のものとされ、同性愛が擁護されるようになってきており、しかも、それが旧い偏見からの解放、人間の進歩と向上という名目で主張されていることは注目に値することです。つまり現代人がしていることは、見かけ上知的で洗練されているというだけで、根本的には、金の子牛を礼拝したイスラエルのしたこと同じなのです。真の聖なる神を否定し、その代わりに自分の考えだした偶像の神を据えることを通して、自分は神の支配など受けないのだ、何が善で何が悪かは自分が決める、私自身が神のようになるのだ、と宣言しているのです。これはエデンの園でサタンが蛇を通して人にそそのかした道そのものです。これ以上に敬虔からほど遠く、神の怒りと処罰に値する態度はありません。

 

今回のパンデミックも、ワクチンの開発によるのか、集団免疫の獲得によるのかは分かりませんが、いずれは沈静化するのでしょう。しかし人類が、真の神に対する敬虔の道を否定し、正反対の方向へ歩み続ける限り、その当然の結果として、人の罪は増大し続け、そしてまたその当然の結果として、戦争、疫病、災害などは決して止まず、むしろ増大し続けることでしょう。このことは終わりの時代に関する主イエスの預言にも、黙示録にも、はっきりと記されていることです。私たちは、私たちにとって不都合な、罪の結果にのみ目を向けて大騒ぎするのではなく、むしろその原因に、神の聖さと罪の悪質さに目を向け、日々深く思い巡らそうではありませんか。主イエスの贖いによって救われ、神の子供とされ、天国の保証が与えられているからと言って、そこに安住することをせず、聖書の御言葉、特に、神の聖なる十戒や、主イエスの山上の説教に照らし合わせて自らを吟味し、聖くされることにあこがれ、祈り求める者となろうではありませんか(Ⅰテサロニケ4:3)。そして、地上に臨む様々な災害によって、人間の命のはかなさ、その誇りとしているものの虚しさ、その罪と高ぶりに目が開かれ、真の福音理解を通して神に立ち返る人々が起こされるように祈ろうではありませんか。

 

聖書の預言によれば、それにもかかわらず、大多数の人が救われるというようなことはなく、救われるのは比較的少数の人なのかもしれません(黙示9:20-21)。しかし、神によって救いに定められている人々は、みな救われることでしょう(使徒13:48)。救われた者たちは、救われて終わりなのではなく、この地上での艱難を通して練りきよめられることによって、その衣は白くされ、最終的に、神の御前での永遠の喜びが増し加えられることになるでしょう(黙示7:14)。私達には神の御計画のすべてをわきまえ知ることは許されていませんが、主はどんな時もすべての事を支配しておられること、このことだけは絶対確実であり、私たちがどんな時も碇を下ろすことができる、確実な足場です。「主よ、私にはあなたの御計画のすべてを知ってはいませんが、あなたの御心がなりますように。あなたの御許に召される日まで、日々、ただあなたの御心に聞き従うことができますように。」そう祈りつつ、この終わりの時代を歩んでいこうではありませんか。

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