札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「信仰はどこから来るか」 創世記 第15章 1‐6 節 ローマ人への手紙 第4章 1-12節

 

 15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

 15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

 15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

 15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

 15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 

4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。

 4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

 4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

 4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 4:6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

 4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」

 4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、

 4:10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

 4:11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、

 4:12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

 

使徒パウロは、信仰の父アブラハムの歩みから、私たちが救われる根拠が何であるかを見出し、ローマ人への手紙の中で明確に論証している。すなわち、パウロは、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義とみなされた。」との創世記の御言葉から、信仰義認の教理を語っている。

 

私たちは、自分自身の努力や美点や良い行いや功績といったものによって、神から「合格点」をいただき、救われるのではない。そうではなく、私たちは信仰によって救われる。すなわち、神の子イエスキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、三日目によみがえられた、この事実を受け入れ、信じて告白することによって救われるのである。

 

これは一方的な神の恵みであり、人間の常識を超えている。だから、中世のカトリック教会がそうだったように、私たちもまた、この神の恵みの良い知らせを、人間の努力によって救われるという教えに、知らないうちに捻じ曲げてしまうことがある。すなわち、私たちは信仰がなければ救われない。だから、もっと熱心に、もっと確信を持って信じなければならない。もっと善人にならなければ、もっと一生懸命奉仕しなければ、救われない。そんな風に考えてしまう危険性がある。信仰というものを、自分の心の決断や意志の強さ、あるいは一種の美質やセンスや才能のように捉えてしまう。しかし聖書が示す信仰とは、そのようなものではない。

 

アブラハムは、「あなたの生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にする。」という神の約束を受けて、旅立った。しかし、その約束は少しも実現しそうにはなかった。大いなる国民とするどころか、子供が与えられず、妻であるサラ共々、年老いていき、肉体は枯れていくばかりであった。そして、アブラハムはそのような自分の失望や疑いを、包み隠さず、ありのまま主に申し上げた(創世記15:2-3)。ここで、アブラハムは、神の約束を信じられないでいるのである。

 

そのようなアブラハムに対して神は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が後を継ぐ」と、はっきりとお答えになった。そして、アブラハムを外に連れ出し、アブラハムに満天の星空を見せられ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたのである。アブラハムは、満天の星空を見上げながら、全地の創り主なる神の力、大きさ、偉大さを改めて示され、その神様の御手の中にある自分を改めて発見し、神の約束を信じたのである。

 

アブラハムは自分の意志の強さや努力によって、信仰を手に入れたのではない。主なる神がアブラハムを選び、召し出し、導き、声をかけ、ご自分の偉大さを示し、神の言葉を信頼し切ることのできないアブラハムを、信じる者へと変えて行って下さっているのである。信仰は手に入れるものではなく、与えられるものである。弱く揺らぎやすい私たちを、変わることのない神様が、選び、守り、導き、支え、育ててくださる、この方を信頼し、まごころから応答していくのが、私たちの信仰なのだ。だから、信仰もまた、私たちの手柄とはならない。信仰によって義とされるということは、どこまでも私たちの側に神の前で誇れる事柄はなく、ただ神の真実、神の恵み、神のご愛によって造り変えられていくということなのである。私たちのなすべきことは、信仰の創始者であり、完成者である主イエスキリストから目を離さず、この方に自分のありのままを訴え、待ち望み、父なる神の御取扱いに自らを委ね切って、従い続ける事である(へブル12:2)。この永遠に変わることのない神の真実、ここに私たちの救いの確かさがある。この方を信じ、全てを委ねて従い、この方の支えのうちにこの一週間も共に歩んでいこう。

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