札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「自分の正しさによらず」ルカによる福音書 第18章18-27節

ハインリヒ・ホフマン 「キリストと富める青年」

 

 

またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。

戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」

すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。

金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 

 

主イエスが群集にお話しになっているときに、一人の役人が御許にやってきて、このように尋ねた。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」マタイ、マルコの並行記事を見ると、彼はまだ若く、そして大変な金持ちであり、そして会堂の管理人であったということがわかる。

こうしてみると、この若者は、地位があり、富があり、若さがあり、この世においては非常に幸せな存在に見える。しかし、彼は自分の内側を見たときに、本当の満足というものを見出すことが出来なかった。神の平安、神からのいのちをいただいている安心がなかった。神を信じ、心から真剣に求めているにもかかわらず、神とつながっている実感、すなわち、神に愛され、受け入れられ、喜ばれ、神の国の住人とされているという活き活きとした実感がなかったのである。その原因は、彼が自分の善、自分の正しさ、つまり、どこまでも自分の持っている何かを頼みとして神に受け入れられようとしていたからに他ならない。彼は、尊い方、正しい方、は神お一人の他にはだれもいないことを悟らず、自分の善、人間の正しさを増し加える事によって神に受け入れられることができるかのように考え、主イエスをも、そのような道を教える教師としてとらえていた。「尊い先生」という、主イエスに対する彼の呼びかけに、その事が表れている。

 

主イエスの「神のいましめを行いなさい」といいうお答えに対して、彼は即座に「それらのことはみな、小さいときから守っております。」と答えている。ここにこの青年の、神の善に対する、また自分の罪に対する、理解の浅さを見ることが出来る。神のいましめに対する彼の理解は当時のパリサイ人の解釈と同じものであった。つまり、姦淫の行い、盗みの行い、殺人の行いが外に現れなければいい、というものに過ぎなかった。しかし、神のいましめの本当の意味は、主イエスが山上の説教で語られたとおり、人間の内側、その心のあり方を問題にしているのである。人の存在を疎ましく思い、居なければいいと思い、見下すのであれば、それは既に心の中で殺人をしたと同じであり、性的なむさぼりの心は、既に姦淫を犯したと同じことなのである。だから本当に神のいましめの前に立ったとき、私たちは恐れ、震えおののくのが当然なのである。しかし、この青年は「それらのことは皆、小さい時から守っていた」つもりであった。だからこそ、守り行っていると思っているのに、平安も喜びもなかった、それは当然のことであった。

 

 主イエスは神の義と自分の罪に対する、彼の理解の浅さを見抜かれ、その自己満足を打ち砕くためにこのように仰ったのである。「持っているものを皆売り払って、貧しい人に分けてやりなさい。」

 これはこの富める青年にとっては、まことに致命的な急所であった。彼は今まで自分では、それなりの施しも行い、それほど物にこだわり、富に捕らわれているとは思っていなかったことだろう。しかし、この主イエスのお言葉により、彼の善、彼の義というものの底の浅さが彼自身に明らかに示されたのである。

 主イエスは「彼に目を留め、いつくしんで」言われた、とマルコの並行箇所にあるとおり、主イエスは彼を意味も無くただ失望させるためにこう仰ったのではない。そうではなく、彼は自分の正しさ、自分の善によって神の国に届こうとしていたが、それこそが、神の国に入ることを妨げるものだったのである。神の救い、神の力、神の義は、心砕かれ、貧しくされ、幼子のように神の恵みとあわれみにすがる者にのみ、与えられるものだからである。主イエスを信じ、神の救いを受けていったのは、自分の罪を心底認めていた取税人、娼婦、強盗といった人たちであった。自分は「自分の正しさ」を持っている、と自惚れていた宗教家たちではなかったのである。

 

この青年は、このときは、自分の急所を突かれて、自分自身ではどうにもならない、この世の欲にとらわれた自分の姿を知り、主イエスに背を向けて去っていくしかなかった。しかし、彼が自分の本当の姿を主イエスによってつきつけられ、失望し、悲しむものとさせられたことは、彼にとって必要なことであった。彼はそこからのみ、十字架の死と復活を通して、罪人を丸ごと救ってくださる、神からの救い主としての主イエスキリストに出会うことができるからである。

 

私たちは自分の可能性に立って、そして力んで主イエスを呼んでいるのではないだろうか。この富める青年のやり方で、自分の正しさをさらに増し加えるために、主イエスを呼んでいるのではないだろうか。そうであれば、神がその道を行き詰らせてくださるだろう。私たちの救いはその方向には無いからである。そうではなく、「人には出来ないことも、神には出来る」この単純な一言に、私たちの全てがあるのである。私たちは自分の義に敗北し、破れ果てるしかない。そして一切の正しさを、救いを、自分の内にではなく、ただキリストに求めていくのである。その時に出会うのは、「善い先生」としてのイエスではなく、どうしようもない罪人の私たちを、ご自身の恵みの業によって丸ごと救って下さる、救い主としてのイエス・キリストである。歴史上の聖徒達も同じ道を通された。私たちもまた、主の御手によって低くされ、砕かれた、低い心の内に、主の恵みを受けていく者へと造り変えていただこう。

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