札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

講解説教 「ロトの妻を思い出しなさい」 ルカによる福音書 第17章28‐33節

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17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、

 17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

 17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。

 17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。

 17:32 ロトの妻を思い出しなさい。

 17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

 

主イエス様はここで、「神の裁きは思いがけなく来る」こと、「この世の、一見安穏とした見かけに騙されてはならない」ことを警告していらっしゃいます。

 

ロトが住まいとして選んだソドムは肥沃な低地にあり、文化は栄え、生活は豊かに繁栄している土地でした。そこには人間の豊かな生活がありました。住人の堕落が極まって、神がこれを滅ぼそうとなさった時にも、ソドムやゴモラの町の人々は全く普段と変わらないように、「食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていた」のです。彼らは滅びが来るなど、毛頭思いもしませんでした。ロトの娘婿たちにとっても、神がソドムを滅ぼそうとしておられるという警告は「冗談のように思われた」と記されている通りです。

 

1966年のアメリカ映画、「天地創造」(原題「The Bible, in the beginning…」)は、創世記を忠実に映像化しようとした真面目な映画ですが、そこでは、ソドムの町は、暗雲が立ち込めて陽が差さず、暗闇に覆われ、町のあちこちで叫び声が上がり、恐ろしげな偶像が街のあちこちに立っている、不気味な町として描かれています。ソドムが悪の町であることをわかりやすく伝えるための映像表現でしょうが、実際のソドムがそのようであったわけでは必ずしもないでしょう。そのような露骨におどろおどろしいソドムのイメージをもって、神に裁かれたソドムとは私たちとはかけ離れた別世界の出来事であるかのように、誤解してはなりません。

 

ソドムやゴモラは、栄えた、豊かな町だったのです。文化はいよいよ盛んになり、人々の生活は豊かになり、交易や商売は盛んになり、木は植えられ、建物はどんどん建てられていったのです。彼らは自信を持ち、自分に満足し、誇りに満ち、得意になっていたことでしょう。また、ソドムの住人の全てが、ロトの家を取り囲んで、客人たちを強姦しようとした暴漢たちのようだったわけではなく、一見上品で、教養のある人々も多くいた事でしょう。しかし、うわべを見ずに心を見て正しい裁きをする神の目から見た時、正しい者はソドムに十人もいなかったのです。

 

主イエスがここで警告されている事は、裁きと滅びは予期しない時に来るという事です。人間のわざとこの世の事態はだんだんと薄れていくのではなく、逆に、いよいよ盛んになっていき、人間の自負心はいよいよ高まっていき、神を捨てた人間中心のこの世が展開されていくのです。だから滅びが来るなんて毛頭考えられない、そういう状態においてこそ、キリストの再臨が起こり、滅びが来る、これが主イエスがここで警告していらっしゃることです。

 

「ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。」

 

と主イエスが語られたようにです。救いに選ばれた者が皆救われ、再臨のキリストを迎える備えが出来た時に、この世は何も知らずに、ただ自らの栄えを誇っている、その時に、です。直前の個所では、主イエスはノアの洪水に譬えて同じことを説明していらっしゃいます。ノアと家族が箱舟を作って乗り込んだ、その日に、突然大雨が降り始めたのです。箱舟が完成に近づくにつれて段々と気候が乱れてきて、いかにも大雨が降りそうな状態になってきたのではありません。

 

さらに、

 

その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

 

と、主イエスは警告していらっしゃいます。パレスチナ地方の家は、外階段から屋上に上がれるようになっており、昼間はその上で働いている者がいるわけです。しかし、再臨の時にはもはや一切の猶予はありません。だから逃げるために何か必要な物を家の中に取りに入る、そのようなことは一切無益であり、この身一つで再臨のキリストと直面しなければなりません。すなわち、キリストの再臨、神の国の実現、神の国に入る資格ということは、この世の持ち物、この世の地位、この世における功績や評価、そういったものとは一切無関係だということです。ロトの妻は、せっかく滅びの町ソドムから救い出されたにもかかわらず、また、御使いの警告を聞いていたにもかかわらず、「うしろを振り返ったので塩の柱になってしまった」とあります。ソドムと、この世と、共に裁かれ、運命を共にすることになったのです。ロトの妻の心はこの世と、ソドムとつながっていました。その心は、神を認めないこの世の生き方、ソドムの生き方から離れることができなかったのです。

 

このロトの妻のことを、他人事と見なさず、教訓にせよと主イエスは言われます。もちろん、私たちクリスチャンは世捨て人となってこの世との関わりを絶って生活するのではありません。むしろ、神に対してするように心を込めて日々の仕事に打ち込みます。神の戒めに矛盾しない限り、この世の権威を敬い、良き市民、国民として、それに従い仕えます。自分を愛するように隣人を愛し、人は皆罪人であり、神は人間の罪を罰し抑制するために国家を定められ、為政者に剣を委ねられた(ローマ人への手紙第13章)、という現実的な視点をもちつつも、少しでもこの世が良い所となるようにと、努力するでしょう。しかしながら、クリスチャンは同時に、キリストの血という代価をもって神に買い取られ、神のものとなったのであり、天に故郷を持つ者であり、もはやこの世のものではなく、この世においては旅人、寄留者、巡礼者にすぎない、ということを決して忘れはしません。クリスチャンの究極の望みは再臨のキリストをお迎えし、神の国に迎え入れられ、神と共に永遠を過ごすことです。クリスチャンは、本質的には、この世に対しても、古い自分に対しても、十字架によって既に死んでしまった者、縁を断ち切られた者です。

 

再臨のキリストをお迎えするために私たちが持つべき真の持ち物は、この世の富や名誉や功績ではありません。神の国を知らずに、ソドムで生きる自分をいよいよ盛んにしていくためには、それらの物が確かに必要でしょう。この世の命はそういうものによって豊かにされるのですから、蔵の中の麦が、箪笥の中の着物が、金庫の中の宝石が必要だということになるでしょう。ロトの妻はそのような人でした。ソドムを愛し、「自分の命を救おうとしてそれを失う人」であることが、実体験の中でテストされることによって明らかにされたのです。

 

しかし、主イエスの十字架によって、自分の全ての罪がゆるされたこと、この世に対しても、古い自分に対しても、自分は死んでしまったことを信じる者は、もはやソドムの宝を未練がましく振り返るようなことはしません。再臨のキリストと新しい神の国を迎えるために必要な持ち物はただ一つ、信仰です。信仰とは自分の功績によって神に認めていただこうとひたすら努力することではありません。主イエスキリストが自分を救うために、自分の罪の刑罰を身代わりに受け、死んでよみがえって下さったことを受け入れ、その結果、無償で与えられる神の子供としての立場に安らぎ、全てを神の御支配と配慮に委ねて信頼し、日々神に従っていくことです。その時、私たちは、神を認めないソドムの生き方、この世の命、を後ろに捨てて行き、キリストにある新しい命を日々迎え入れていく、そして「命を保つ」者となるのです。

 

この世の命を保とうとしてまことの命を失う者か、この世の命を捨てて、まことの命を得る者か、全ての人について、明らかにされる時が来る、その日は思いがけずに来る、だから備えていなさい、と主イエスはここではっきりと警告していらっしゃいます。あなたはどちらでしょうか。自分は既に主イエスを信じ、罪ゆるされて神の子供とされている、と言える方も、「ロトの妻を思い出しなさい」というこの主イエスの警告に正面から向き合い、自らの心と生き方を省みようではありませんか。また、まだ神を信じていない、罪赦されず、神の子とされていないという方も、今、あなたを罪の刑罰から救って神の子供とするために、死んでよみがえられた神の子イエスキリストを信じることによって、まことの命を選ぶことが出来るのです。主イエスが予告された裁きの日が来るまで、救いの扉は、全ての人に開かれているのです。

 

次回 「一人は取られ、一人は残される」 ルカによる福音書 第17章34‐37節

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