札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

聖書講解メッセージ 「一人は取られ、一人は残される」

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「一人は取られ、一人は残される」 ルカによる福音書17章34-37節

 

17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

17:35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」

17:36 [本節欠如]

17:37 弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

 

 

前回に続いて、終末についての、主イエスの御言葉を学んでまいりましょう。

 

キリストが再びおいでになる時には、稲妻が東の端から西の端まで一瞬にして閃き渡るように、再臨のキリストの御姿は、全世界に同時に、この地上に一瞬にして現れます。ですから前回読みました31節には「その日には、屋上にいる者は」とあるように、昼間その時を迎える者があり、今回の34節には「その夜、・・・寝ていると」とあり、夜その時を迎える者があります。こちらが昼なら地球の反対側は夜ですから、こちらではキリストの再臨を昼迎える者があり、地球の裏側では夜迎える者があるわけです。

 

この二人の男は兄弟であるか、あるいは仕事の仲間で親しい関係にあったか、一つの寝床で寝ていました。一人は目を覚まして祈り、一人は寝ていたというのではなく、二人一緒に同じ寝床で寝ていたのです。また、二人の女は、力を合わせて一緒になって、一つの手うすを回していました。二人で一緒に同じことをしていたのです。一方は勤勉に働き、一方は怠惰に寝ていたというのではありません。

 

しかし、主イエスは、どちらの場合についても、「一人は取られ、一人は残されます」とおっしゃいました。ここで主イエスは、再臨の時に、永遠に神と過ごす天国へと取り去られる者と、裁きのために地上に残される者、その決定的な分かれ目が何であるか、誤解の余地の無いように明らかにしていらっしゃいます。

 

すなわち、外的な目に見える人間のわざが、救いの条件なのではないという事です。ある人が再臨の時に天国へと取り去られる人か、あるいは裁きのために地上に残される者であるか、それは外側に目に見えるその人のわざを観察しただけでは必ずしも分からないという事です。

 

誤解の無いように確認しておきたいと思いますが、人格の変容と行いの変容を伴わない信仰は信仰ではありません。もしある人が、神の前に自分が罪人であることを認め、主イエスが自分を救うために十字架で死に、よみがえられたことを心から信じるのならば、必ずその人のうちには聖霊が住み、その人の人格と行動は変えられていきます。その人は謙虚な者とされ、神を恐れ敬い、人を愛し、罪を憎み、罪から離れ、神を信頼して、神の御心にかなった生活を送ろうとするようになります。嘘や偽りやごまかしから離れ、人に対してではなく、神に対してするように、心を込めて勤勉に、日々の勤めをなす者へと変えられていきます。端的に言えば、真のキリスト信者の人格と行動は、神の十戒に適ったものへと変えられていくのです。そのような変化、すなわち聖化の伴わない信仰は真の信仰ではないことは、聖書を通して、特に、ヤコブの手紙に、繰り返して、はっきりと記されている通りです。

 

しかし、同時に極めて重要なことは、そのような変化、すなわち聖化は、救いの結果であって、救いの条件ではないという事です。悔い改めて聖霊を受け、新生して救われた結果として、徐々に聖化されていくのであって、もしあなたが聖化されるなら救われる、というのでは決してありません。聖化とは少しずつ、段階をおって徐々になされていくものであって、キリストを信じた瞬間に、一足飛びに心も行いも完全なものとされるのではありません。もし、自分がどれだけ聖化されたかを救いの土台とするなら、自分は救われたという確信を失うか、自己満足した偽善者になるか、どちらかしかありません。どれほど素晴らしいクリスチャンであっても、「私は今日、心からの謙遜と信頼と愛をもって、謙遜に、忠実に、神のためにつとめを完全に果たすことができた。見よ、全ては善い!」などと言える日はほとんど無いことでしょう。むしろ、その人が正直であればあるほど、救われた後も、一見善いと思える行いの裏に、多くの偽善や誇りや見せびらかしや高慢や貪欲などの、隠れた罪が根を張っているのを自覚させられることでしょう。

 

私たちが救われ、再臨の時に「取られる」根拠は、私たちの外面的な行いにも、内面的な美質にもありません。前回の説教のテーマでもありますが、その根拠はあくまで信仰にあります。どれほど隠れた罪があり、どんなに失敗だらけの未熟なクリスチャンであっても、「あなたは、神の御子キリストがあなたの罪を赦すために、十字架で死んでよみがえってくださったという確信を捨てるつもりがありますか?」と聞かれるなら、「とんでもありません、それこそ唯一の私のよりどころであり、唯一の希望です」と答える事でしょう。それこそが救われる唯一の条件です。私たちを救うために神が備えてくださったこの一方的な恵みを受け、そこに留まることです。そこに留まり、神の赦しと、愛と、訓育と、懲らしめを受け続けることです。罪を犯すことが少なければ救われるのではありません。真面目な生活をしていれば救われるのではありません。勤勉に、朝早くから夜遅くまで働いていれば救われるのではありません。主イエスはここで、救われているかどうかは、そのような外面的な基準によるのではないことを教えてくださっています。

 

「取られる」とは、再臨と同時に主イエスのもとへと移され、永遠に神と共に過ごすことを意味します。この人々も、神の国に入れられる前に裁きを受けますが、その裁きとは一人一人が神への忠実さに従って、神から永遠の褒美を頂くことであって、この人々が有罪判決を受け、神の前から退けられて滅びる事は決してありません。クリスチャンたちが天国へ入る前に受けるこの裁きについては、コリント人への第一の手紙3章に書かれています。

「もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。(14‐15節)」とある通りです。

 

また、「よくやった。良い、忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、あなたに沢山の物を任せよう(マタイによる福音書25:21)」

と主イエスの御言葉にある通り、裁かれる基準は忠実さです。福音を伝えることや、教会で奉仕をしたりすることは素晴らしいことです。神がそのための機会と力を与えてくださる度に、私たちはそれをなすべきです。しかし、それだけが神の業なのではありません。神に喜ばれ、受け入れられる業かどうかの基準は、外面にはありません。業をなす者の信仰にあります。主イエスを信じる者が、神を恐れかしこみ、再臨を待ち望みつつ生きているならば、屋上で仕事をすることも、臼を引くことも、夜寝ることですらも、神の業なのです。その人は再臨の時に神のもとに取られ、褒美を受けるでしょう。耕すことも、建てることも、物を売ることも、会社勤めをすることも、勉強をすることも、子供を育てることも、料理をすることも、ごみを拾う事も、主イエスを信じる信仰によってなされる生活にあっては、神の業なのです。

 

一方で、「残される」とは、自分の犯した罪がゆるされないままで地上に残され、再臨の主イエスの前で最後の審判を受けることを意味します。この裁きはクリスチャンたちが褒美を受けるための裁きとは別の裁きであり、ヨハネの黙示録20章では「大きな白い御座の裁き」と呼ばれています。それまでに死んだ歴史上の全ての者も、よみ(陰府または黄泉、旧約聖書のヘブル語ではシェオル、新約聖書のギリシャ語ではハデス)と呼ばれる、最後の審判を待つための場所から出され、主イエスの前に立って裁きを受けることになります。

 

ヨハネの黙示録 20:11-15「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 

現代においては、地獄で滅びる人など全くいない、あるいは殆どいない、愛の神はそんなことはなさらない、というようなことを語ったり、あるいはほのめかしたりする偽教師たちが少なくありません。しかし、これは最大の偽りであり、欺きであり、聖書の記述にも、主イエスご自身の御言葉にも真っ向から反します。聖書にはっきりと記されている通り、多くの者が、罪を悔い改めて主イエスを信じなかったゆえに、永遠の地獄の刑罰を受けるでしょう。これは聖書に記されている中で、最も重大で厳粛な、目を逸らしてはならない記述の一つです。

 

一方で、大きな白い御座の裁きに立つ者、すなわち主イエスを信じずに死んだ全ての者は一人の例外もなく、問答無用で絶対に地獄に落ちるのだ、というような解釈がしばしば為されてきましたが、それはそれで、聖書を超えた極端であるように思えます。そうであれば、そもそも裁きの座など必要が無いからです。主イエスは、最後の審判では、カペナウムの住人は、ソドムの住人よりも重い刑罰を受けると語っておられます(マタイ11:21-24)。それは、ソドムの住人には救い主イエスにお会いする機会は与えられなかったが、カペナウムの住人は主イエスにお会いして驚くべき奇跡を見ながら悔い改めを拒んだからです。このことは、神の裁きとは十把一絡げの大雑把なものではなく、各々が生きていた全ての状況、条件を考慮した緻密なものであり、下される判決もそれに応じた、緻密で、完全に正しいものであることを示しています。

 

また、黙示録のこの個所には、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とありますが、「彼らはみな、いのちの書に名が記されておらず、火の池に投げ込まれた」とは記しされていません。つまり、この箇所は、「大きな白い御座の裁きに立つ者は全員、いのちの書に名が記されていない」とは、言っていないように思えます。

 

いずれにせよ、間違いなく確信できることは、神の裁きは完全に正しい裁きであって、一人一人が間違いなく、自分に完全に相応しい結果を受け取るのだということです。この地上では、必ずしも行われなかった正義の裁き、正しい応報が、ここで完全に行われるのです。「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」と記されている通りです。私たちは、その時が来るまでは、裁きについてのそれ以上の詳細は、神に委ねて安んじることができるのであり、またそうしなければなりません。

 

唯一、例外的に、自分が受けて当然の、相応しい報いを受けない人たちがいるとすれば、それはクリスチャンたちです。彼らはただ主イエスの福音を信じたが故に、ただそれだけで、自分の罪の酬いを受けることがありません。主イエスの身代わり故に、それらはすべて帳消しにされ、それどころか、主イエスに与えられている大いなる栄光が、キリストの花嫁なる彼らにも与えられるのです。驚くべき不思議、と言わざるを得ません。

 

最後に、弟子たちは、「主よ。どこでですか。」と尋ね、主イエスは、彼らに「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」とお答えになりました。

この主イエスの御言葉は、一見分かりにくいですが、死体のある所には、腐臭を嗅ぎつけてはげたかが集まるように、どんな人も、どんな出来事も、神の裁きを逃れることはできないことを言われたのだと思われます。裁きを必要とする全ての出来事に、一人一人に、神の審判はもれなく、的確に、必ず下るのです。どんな山中に一人で暮らしていても、どんな孤島に一人で暮らしていても、この世の全ての人から忘れられている場所に逃げおおせたとしても、神の審判は必ず全ての人に下る。そのことをおっしゃっているのです。この世ではうまく裁きから逃げおおせたように見えても、再臨の時には、よみから引き出され、神の審判の前に立たされるのです。歴史を通して神はすでに、ご自身の支配と裁きを現していらっしゃいますが、それは完全なものではなく、その最後の総決算が為される時が必ず来るのです。キリストの再臨の時がその時です。

 

それでは、その時まで、私たちはどのようにして生きて行けばいいのでしょうか。主イエスの御言葉によれば、屋上で仕事をしたり、寝床で寝たり、うすを引いたりしている時に再臨がありました。再臨、再臨と力んで騒ぎまわり、夜も寝ずに再臨を待っていたというのではありません。また、再臨、再臨と浮足立って、仕事も手につかずに再臨を待っていたというのでもありません。毎日の生活の為に必要な当たり前の働き、当たり前の生活をしていたのです。悔い改めて聖霊を頂き、新生した真のクリスチャンは、そのような当たり前の生活の中で、キリストのものとして生きるのです。主イエスのあの十字架によって、罪だらけのこの自分が丸ごと赦され、丸ごと受け入れられ、完全に神の子供とされた。この神の子としての立場は、永遠に確かであり、揺らぐ事がない。この喜びと安心の中で、毎日神の取り扱いを受け、悔い改め、感謝し、信頼して神に従い、神と共に歩んでいくのです。

 

私たちは毎日毎日、一体何のために心を費やしているのでしょうか。キリストでしょうか。この世でしょうか。私たちは、食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていくのです。しかし、再臨を待ち望みつつ、キリストと共にそうしていくのと、キリストを信じず、神を否定してそうしていくのでは、全く違うのです。キリストにあって生活していく時、同じように見えても、私たちははっきりとこの世と区別される者になるのです。そして、神に取り上げられる者になるのです。

 

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