札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

聖書講解メッセージ「祈り続ける理由」 ルカによる福音書 第18章 1-8節

f:id:sapporochristseisanchurch:20211208184624j:plain

「祈り続ける理由」 ルカによる福音書 18章1-8節

 

(また)、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

 

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

 

主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 

新改訳では訳出されていませんが、協会訳ではされているように、第1節の冒頭には「また」という接続詩があります。これは、この内容は、今までの節で語られた事と無関係に語られているのではなく、繋がりがあることを示しています。すなわち、ここで語られている「どのように祈るべきか」という問題は、「主イエスの再臨を待ち望む神の民の生き方」という文脈の中で語られているということです。そのことは、主イエスがこの話を、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と結んでおられる事にも示されています。

 

これまで語られてきたのは、「キリストの再臨とこの世の終わりは、予告なしに来る。来そうもないと見える時に来る」という主題でした。ノアの洪水の時に、またソドムやゴモラの滅亡の時にそうだったように、人々がこの世の事柄に熱中し、それらが終わるどころか、いよいよ盛んになっていくように見えた時代、そのような時代に、主イエスはご自分が再臨される時代をたとえていらっしゃいます。再臨の時に、この世は滅亡寸前の青息吐息の有様なのではなく、いよいよ盛んになっていくように見えることでしょう。人間の傲慢さや罪や社会悪や不正はますます増大していくことでしょうが、人間の文化や技術や知識に限って言えば、いよいよ盛んになり、あるいは神の域に達するかのように見えることでしょう。

 

当然、そのような中に生きている神の民は、しばしば、牢獄の中のバプテスマのヨハネのように、疑惑や失望を感じる時があることでしょう。はたして自分たちは本当の望みを持って生きているのだろうか。見えるもの、手で触れるものは皆それと正反対に進んでいるではないか。もし空しいことを望み、虚しいことを信じて、しかもそれを世の流れに逆らって、苦労して保っているというなら、こんなに愚かな事は無いではないか。終末と再臨についての主イエスの御言葉を正しく、文字通り信じる者であればあるほど、そのような疑い、悩み、失望に襲われることは避けられません。ここで、主イエスはそのような事態を、予期すべきこととして想定し、そのような時にどうしたらいいのか、予め教えてくださっているのです。

 

そのような時代になすべきこと、それは祈りです。主イエスの言葉を正しく信じていればこそ、失望への疑惑に襲われるであろうことを、主イエスは予め覚悟するように警告していらっしゃいます。そして、そのような失望へと誘惑される時代にこそ、より一層祈るようにと私たちに教え勧めて下さっているのです。失望するのが当然だと思われるような状況のただ中にあっても、なおあきらめず、なお望み、なお信じ、なお祈っていく。それはどういうことなのか、それをここに、主イエスは譬えを通して語っておられるのです。

 

恐らくこのやもめは一人暮らしであったでしょう。金もなく、権力もなく、後ろ盾もない、取るに足らない、これ以上ない弱い存在であったでしょう。そして、その弱さにつけ入れられて、強い者から標的にされ、つけ入れられて、わずかな自分の持ち物を取り上げられようとしている、そんな不当な扱いを受けて苦しんでいたのです。しかし、そんなやもめが、私利私欲しか頭にない、人を人とも思わない裁判官を訪ねて、自分の為に正しい裁きをしてくれるように訴え続けたというのです。常識的な判断から言えば、彼女がしている事は全く無駄なことだとしか思えなかったことでしょう。しかし、この何も持たないやもめは、ただ一つのものを持っていました。それは粘り強さでした。しつこく、一途に訴えるということでした。そしてついには、この不正な裁判官も「うるさくて仕方がないから、裁判をしてやることにしよう」と言わざるを得なかった、そのような稀有な執拗さを、このやもめは持っていたというのです。

 

これほどの不屈さと執拗さは、どこから来ていたのでしょうか。それは単に彼女の生まれながらの粘り強い性格から来るしつこさに過ぎなかったのでしょうか。もしそうであれば、主イエスのこのたとえ話は、「しつこい祈りは、あきらめの早い祈りに勝る」とか、「粘り強い性格は、淡白な性格に勝る」とか、単にそういったことだけを言ったに過ぎないでしょう。しかし、そうではありません。このやもめのしつこさと粘り強さの源泉は、単なる生まれつきの性格にあったのではありません。彼女の不屈さ、その源泉は、「そうせずにはいられなかった」「彼女にとっては他の選択肢はあり得なかった」ことにありました。

 

まず、このやもめにとっては、裁判をしてもらえるかどうかは生きるか死ぬかの死活問題でした。それこそが最重要問題でした。裁判をしてもらえなければ、すべてを取り上げられ、のたれ死ぬしかありませんでした。裁判か、破滅か、二つに一つでした。裁判をしてもらわなくても、まあ仕方がないか、などという考えは、彼女にとっては、もっての外でした。

 

次に、彼女にとっては、裁判官にひたすら訴えの声を上げ続ける、それ以外に可能な手段はありませんでした。圧力をかけられるような人脈も、賄賂に使えるような金も、全くありません。彼女が誤魔化さずに直視していたのは、ここに自分が脅かされている不正があり、ここに裁判官がおり、自分の身の破滅を避けるためには、この裁判官に声を上げ続けるしかない、ただその一事でした。「ひっきりなしにやってきてうるさくてしかたがない」と裁判官に言わせるほど、このやもめが訴え続けたのは、そのような、ごまかしのない、まっすぐな現状認識の故であって、彼女が生まれつきあきらめの悪い、しつこい性格だったからというのではありません。

 

このことは私たちに、終わりの時代に生きる私たちの祈りが、どのようなものであるべきかを示しています。終わりの時代に生きる神の選民、真のクリスチャンは、ノアやロトと同じく、世の罪と不信仰ゆえに、心を痛め、正しい裁きを求めて神に叫び求めずにはいられなくなる、ということです。その事こそが、彼らの心の最も奥深くにある願いとなり、叫びとなり、祈りとなるのです。このやもめにとって、「裁判をしてもらえなくても、まあいいや」というような考えはもっての外でした。正しい裁き、それが彼女の最も深い願いであり、叫びであり、寝ても覚めても、心の中心を占める第一の関心事でした。

 

私たちはどうでしょうか。勿論私たちは、生活から来る様々な必要や関心事を神に祈ってよいのであり、また祈るべきです。しかしそれは第一のものではありません。主イエスの御言葉によれば、真のクリスチャンの第一の願いは「神の国と、神の義」である筈です。そして、この終わりの時代に、神の国と神の義のことを思う時、私たちの心は、このやもめの心のようでしょうか。あるいは世の心遣いと富の惑わしの故に眠り込んでいるでしょうか。

 

現代においては、多くの者が聖書に記された、全宇宙の創造主なる全能者、義と聖と愛の救い主、裁き主を否定し、そのような考えを嘲り、無神論か、あるいは人間が作り出した、人間の自由になる偶像の神を代わりに据えています。聖書の御言葉への畏れを投げ捨てて、それを骨抜きにし、自らの知識と知恵を誇り、言葉にせずとも生き方において神など不要だと豪語しています。そのような時代において、私たちの心は、「立ち上がって裁いて下さい、御自身の栄光と聖さを、現わしてください。そうでなければ私たちは生きられません」と昼も夜も、預言者ハバククのように叫び続けているでしょうか。あるいはこの世の欲と富と娯楽の中に座して、「まあいいさ、そんなものが無くても生きていける。さあ、食べて、飲んで、楽しめ。」と諦めと共につぶやいているでしょうか。

 

また、私たちは、このやもめのように、「神に叫び続けること以外に道はない」ことをはっきりと見て取っているでしょうか。このやもめは、この裁判官に訴え続ける以外に道は無いことを悟っていました。自分自身にはこの問題を解決する可能性も力も皆無であることを見て取り、何の期待もしていませんでした。私たちはどうでしょうか。この終わりの時代にあって、聖書に記された、義と愛の神が実在していると証しするのは、何によるのでしょうか。教会を守り、導き、きよめ、成長させるのは、また、人を救い、クリスチャンにするのは、何の力によるのでしょうか。それは、昔も今も、使徒行伝の時代も現代も変わらず、神の主権的な働きであり、神の力によるしかないことを悟り、見て取って、神にのみ期待し、頼り、叫び続けているでしょうか。それとも言葉巧みな論理の力や説得力、あるいは人間の立派な生活や品性による模範や感化、そういったものによって、人を救い、クリスチャンにできると考えているのでしょうか。立派な学識や学位が、あるいは組織の力、宗教者の会議、委員会、声明、社会活動、それらが教会を導き、きよめ、育むことができると思っているのでしょうか。そうであれば、私たちはこのやもめのようではありません。自分自身に少しでも力や可能性があると考えている者は、このやもめのように、執拗に、死に物狂いで、「正しい裁きのために、夜昼神を叫び求める」ことは決してないでしょう。

 

主イエスはここで、生まれながらの性格的な粘り強さや持続力のことを語っておられるのではありません。神に願いをかなえて欲しいなら、一度や二度の祈りでは不十分だとか、そういったことを語っておられるのでもありません。私たちは、このやもめのように、自分にとっての死活問題、最重要問題が何であるかを正しく見て取っているでしょうか。神の国とその義、神の聖とその栄光が私たちの飢え渇きとなっているでしょうか。また、その問題に対する自分の無力さを悟っているでしょうか。もしそうであれば、終わりの時代に、神の選民であるクリスチャンは、神が立ち上がり、義なる裁きを為されることを求めて、祈りつづけずにはいられなくなるでしょう。その事が、昼も夜も、その人の第一の願いとなるでしょう。この世で生きて行く上での、生活上の具体的な諸問題について祈らないというのではありません。むしろ、そういったことについても、確信をもって、大胆に、熱心に、粘り強く祈るようになります。その人の心は、小さなことにおいても、大きなことにおいても、神の御心がなり、神の栄光が現わされるようにとの願いで満たされているからです。自分がどんなに無力であっても、いや逆に無力であるからこそ、そこに神の力と神の業が現わされるとの神の約束を、知っているからです。そのような信仰の祈りこそ、主イエスがここで教えられ、励まされ、再臨を待ち望む終わりの時代に期待しておられる信仰のわざなのです。

 

主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 

次回 「待たされる理由」 ルカによる福音書 第18章 1-8節

PVアクセスランキング にほんブログ村