札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

聖書の中心的メッセージ 「キリスト教の神髄」~クリスチャンでない方向け

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ローマ人への手紙3章9-21節 説教題「キリスト教の真髄」

 

では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」

「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」

「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 

さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 

 

今日は、思いもかけず、東京から、中学時代の友達が、訪ねてきてくださって、礼拝に参加してくださって、大変驚くと共に、心から感謝しております。今日は、本来は、別の箇所から説教をする予定だったのですけれど、急遽変更させていただきまして、この箇所から、クリスチャンでない方のために、聖書の最も大切な内容を伝えるメッセージをさせていただきたいと思います。

 

時々私は、どうして牧師になったの、と友達から聞かれるんですけど、それは、これを伝えたいからなんだ、これを伝える事がわが生きる使命、本当にこれが一番大切な事、という聖書の中心的なメッセージを今これから、語りたいと思うんですね。

 

さて、私は大学で、心理学を学んだんです。心理学部という学部があるわけではなくて、学部としては文学部の心理学科です。私はあんまり数学が好きじゃなかったんで、大学に入ったときは、ああ、これでもう数学とはおさらばだなと思ってですね、もう二度と数学をやらなくていいんだな、って、嬉しくてしょうがなかったんですけど、心理学を勉強するためには、実は数学は避けて通れないんですね。微分積分に、確率統計に、あと何だったかな、SAS(Statistical Analysis System)っていう、統計データをコンピュータで分析するソフトとかを、やらされまして、なんでこんなことやらなきゃいけないんだ!っていう日々を、特に四年生になってから、送りました。それでですね、四年生になると、ゼミっていうのに入ってですね、研究をしながら、論文を書いたりするんですけども、その時に、指導教授がいて、教えてくださるんですね。A先生っていう先生でした。その先生が、心理学とか、統計学なども、教えてくださったんです。このA先生っていう先生はですね、すごく気さくで親しみやすい先生で、本当に感謝しかないんですけれども、実は、本当にすごい先生らしいんですね。○○大学っていうところで教えていらっしゃったんですけれど、私が行っていた大学が、ヘッドハントっていうんですか、引き抜きをしまして、もっといい条件でうちの大学に来てください、ってまあそのように、引き抜くくらい、すごい方らしいです。超有名高校から、東大の大学院を出ているんだったかな。私には、心理学とか、統計学とか、数学の分野で、この先生はすごいな、っていう人が他にいたんですけど、その人が書いた本のあとがきにも、A先生の事が書かれていました。それによると、このA先生っていう人はもう本当に凄い先生で、心理学、統計学の世界の若きキングらしいんです。何冊も高度な本を出している、本当に実力のある方だそうです。まあ、っていっても、もう20年以上も前の話なんで、今はもう若くはないのかもしれませんけれども(笑)、それくらいすごい先生だったそうなんです。

 

それで、ですね、大学時代はゼミっていうのがありまして、ゼミ合宿っていうのがあるんですよ。まあ要するに、スキー場に行って、みんなでお泊りに行って、先生やそのゼミの同級生と皆でワイワイおしゃべりをしたり、もうみんな成人ですからね、お酒を飲んだりしながら、親睦を深めていこうぜ、みたいな、合宿があったんですね。で、○○ホテルというところに泊まったんです。そうしたら、そのホテルのオーナーの方が、どうも、クリスチャンだったみたいなんですよ。で、ホテルに行くとですね、どのホテルもそうなのかはわかりませんが、ショーをやっていることがあるわけですよ。歌手とか、演歌歌手とか、落語家とかを招いて、ショーをやっていることがあるんです。で、そのホテルでも、ショーをやっていて、A先生も、ちょっと面白そうだから出てみよう、と、おっしゃったんですね。で、私は行かなかったんですが、先生はそのショーに行ってみたんですね。何が面白そうかっていうと、そのホテルのオーナーの方はクリスチャンなんで、神様の、聖書のメッセージについて、あなたに伝えます、という、まるで教会の伝道集会みたいなショーを、ホテルでやっていたんですよ。それでですね、A先生もですね、そこに出てみたんですね。で、ショーが終わって、A先生が、皆がいる部屋に帰ってきたらですね、どういう反応だったかというと、苦笑しながらですね、「いやぁ、まいったまいったー(笑)」みたいな事を言っていましたよ。まあ、だから、こう、どうなんですかね。あまり心に迫らなかったんですかね。神様をたたえる歌とか歌ってですね、神様の救いのメッセージをしたりする、そういうショーなんですけれど、A先生としては、「いやぁ、まいった、まいったー(苦笑)」みたいな感じだったんです。私、覚えてるんです。私はその時もう既にクリスチャンだったんで、まあそれを見ながら、残念だなあとか思っていたんです。

 

でもですね。その時、ふと、A先生がですね、真顔になって、こう言ったのをはっきり覚えてるんですよ。

 

「まあ、でもね、そりゃ、神様がいるかどうかは分からないけどさ、そりゃね、何かはあると思うよ。だって世界ってこんなに凄いんだからさ。」

 

って、先生が言ったんですよ。それは、はっきりと私の心に刻みついてるんですよ。

 

「いやー、まいった、まいったー、神様とか色々と聞かされちゃってさー(笑)」

って言ってたんですけど、ふと真顔になって、

 

「でもね、神様がいるかどうか分かんないけどさ、そりゃ、何かはあると思うよ、この世界には。だって、世界ってこんなに凄いんだからさ。」

 

って言ったんですよ。

 

でも、そのすぐ後にですね、また笑いながら、元の顔に戻って、

 

「でも、そんなのいくら考えたってわかるわけないんだからさー(笑)」

 

って言ったんですよ。まあそりゃそうですね。

 

「そんなの考えたって、分かるわけないんだからさー(笑)」

って、また、もとの先生に戻ったわけですけども、でも、本当にその通りだと思うんですね。

 

そのA先生はですね、本当に色々なことを教えてくださったんですけども、一つはですね、人間の脳みそが、いかにものすごいコンピュータであるか、ということを教えてくださいました。あのですね、今、人口知能、AIっていうのが、結構話題になっているじゃないですか。で、私は将棋とか、チェスとかが、結構好きなんで、羽生さんとか、あと、チェスの世界チャンピオンの、カスパロフさんっていう、伝説のチャンピオンがいるんですけど、その人の書いた本を読んだんですけど、それによると、人工知能が今、すっごい強いらしいんですよ。もう世界のチャンピオンですら、将棋やチェスで勝てないくらい、人工知能はすごいらしいんです。でもですね、あれはどういう仕組みかっていうとですね、人間の脳とは全然違うらしいんですよ。あれは何かって言うと、要するにですね。考えられうる、あらゆる可能性について、全て、コンピュータのものすごい計算速度で、力わざで計算して、その有利不利を点数づけて、比較検討しているに過ぎないそうです。こう駒を動かすことも、こう駒を動かすことも、こう駒を動かすこともできる、という、明らかに無意味な駒の動きをも含めて、もう考えられ得る、あらゆる可能性を取り上げて、その有利不利を全て点数づけて、ものすごいスピードで計算して、比較しているだけだそうです。この駒をこう動かしたらどうなるかな、相手はこうやって来るな、ああじゃあだめだな、この駒をこう動かしたらどうなるかな、相手はこうやって来るな、と、考えられ得る、あらゆる可能性を点数づけて、コンピュータの力わざで、もの凄いスピードで計算して、いちいち、もう全部の可能性をチェックして、比較しているらしいんです。どう考えても無意味な手を含めて、もの凄い沢山の駒の動きの可能性がありますけれど、コンピュータのもの凄い計算速度で、点数つけて、全部計算して、点数の高低で判断しているに過ぎないんです。

 

でもですね、人間の脳っていうのはそういう物とは、仕組みが全然違うらしいんですよ。まあ、私があまり深く話すとちょっとボロが出るんで(笑)、やめておきますけど、人間の脳っていうのは、コンピュータの、AIの、人工知能のはたらきとは、全然違うらしいんです。ひらめきとか、想像力とか、感情とか、感性とか、人格的なやり取りとかですね、もの凄い計算スピードで全ての可能性を計算して比較しました、これが最高点の回答です、っていうそういうコンピュータとはですね、全然違うんだって言うですね、そういう人間の脳の仕組みを、A先生は、詳しく、一生懸命に教えてくださいました。それくらいですね、人間の脳みそは画期的でユニークな、凄いコンピュータなんだっていうことです。

 

脳みそだけじゃないですね。例えば人間の肝臓、これはもの凄い化学工場なわけです。人間の心臓を造ろうと思ったら人工心臓っていうのは、造れます。でも、人工肝臓っていうのは無理だそうです。肝臓と同じ事を人工的にやろうとしたらですね。工場になっちゃうそうですよ。この部屋くらいの。人工肝臓、それは無理らしいです。

 

それでですね、私はいろいろ本を読むのが好きで、色々読むんですけど、中には、俺は神を信じないぞ、っていう人も居るわけですね。神なんかいないぞとか、キリスト教大っ嫌いだ、そういう人も残念ながらいますよね。でもですね、まあそういう人の書いた本でも、私は面白いと思ったら読むんですけど、そういう人でも、この事は認めざるを得ないんですよ。生命が、どういう風にして出来たか、これは分からないんです。神様なんていないんだから、進化論が正しいんだと言います、そういう人たちは。偶然の積み重ねで進化してできたんだと。そう考えないと、私たちが今ここにいる説明がつかないと。でも、どうやって進化したのか、一体、偶然で、無からここまでのものが出来るものだろうか、っていうことについてはですね、神様信じない人でも、キリスト教が大っ嫌いだという人でも、「いや、偶然で出来ることが可能だとは全く証明されていない」って認めるんですよ。一体どうやったら、タンパク質というものができるのか。DNAというものができるのか。これがどうやったら偶然から出来るんですか、と聞かれたら、「いや、それは分かりません。でも、何十億年もかかって、確率的にあり得ないような起こった、と考えるしかありません。そうでないと、我々が今ここにいることの説明がつきません。」って答えるしかないんですよ。どんなにキリスト教が嫌いな人でもですね、どんなに、私は無神論、進化論に固く立つ、という人でもですね、そこはやっぱり認めるんですよ。正直に。

 

それでですね、聖書は言っているんです。世界が、生命が、私たちが存在しているのは偶然ではない、って。まあ、不思議ですよね。もし、神様を認めなかったとしてもですよ、この宇宙がこうやって存在する、ということは本当に神秘ですよね。じゃあ、最初に何かあった、っていうことじゃないですか。それはどこから出来たんですか、それはどこから出来たんですか、それはどこから出来たんですか、どんどんどんどんさかのぼってもですね、無限にさかのぼるっていうことは出来ないわけですから、いや、最初に何かあったんでしょうね、と言わざるを得ないですよね。最初にあったのは何なんでしょうか。神様を信じない人は、偶然だ、っていうんですよ。偶然この宇宙は出来たんだ。私たちも世界も、偶然の積み重ねで出来た、っていうんですけども、でもやっぱり、本当に真摯な、正直な人は、どんなに、「俺は神なんて信じない、もう進化論を絶対信じたいと思う、キリスト教大っ嫌いだ、っていう人でもですね、認めているんですよ、やっぱり。生命がどのようにして出来たのかは分からない、って。最初のこの細胞なりタンパク質ができたとしてもですね、仮に、まあ実際はそこからしてもう不可能なんですけど、でも、そこから進化の積み重ねでここまでの生命ができるかっていうとですね、いや、それはどうやって出来たかは分からないと認めているんですね。環境により適応した、より優れた者が子孫を残す、自然選択だ、自然淘汰だ、ってよく聞きます、それはそれでいいんですが、問題は、そもそも、そのより優れたものとは、どうやって出来たのか、どうやって存在するようになったのか、という点なんです。まあこういう話はですね、他の方のほうが私より詳しく話せると思いますし、ここにも幾つか本があります。

「宇宙は神が造ったのか?」とか「生命の謎」とか、すごく面白い本です。これを書いた人は京都大学の大学院で生物学を専攻した方です。こちらは、アメリカの一流の科学者たちに、あなたはなぜ神様がこの世界を創ったと信じるんですか?と、イェール大学を出たジャーナリストがインタビューした内容をまとめた本です。すごく、すごく、面白かったです。

 

いかにもの凄いことかっていう事なんですよ。私たちが存在しているっていう事が。私が今ここでこんな風に話していますけど、この事も当たり前ではないですね。私の脳みそが、こういう風に話そう、と考えて、神経を通して指令を出して、舌がその命令を受けて動いてですね、その舌は、空気を震わせるわけですよ。で、それが皆さんの鼓膜を震わせるわけですよ。で、その、何かカタツムリみたいなグルグルしたものがあるわけですよ、耳の中に。それが電気信号に変換して、皆さんの脳に届けるわけですよ。で、その脳が解釈して、「ああ、この人はこういう事を話しているんだな」と分かるわけですよ。当たり前の事なんて何一つないんですよ。そして事実、どこか壊れただけで、実際に分からなくなっちゃうわけですよね。例えば脳溢血で、脳のある部分が傷ついただけで、話ができなくなったり、人の話が理解できなくなったり、するわけですよ。

 

この神秘、皆さん、当たり前だと思ってきたかもしれませんけども、考えれば考えるほどですね、恐ろしくなると、私のある友達は言っていました。私の友達、クリスチャンじゃ全然ないんですけど、「ああ、そういう話しないでくれ」って言うんですよ。「話していると怖くなるから。俺ね、そういう、宇宙はどこから来たのかとか、人間はなぜここにいるのかとか、そういうこと考えると怖くなるから、特に夜そういうこと考えると怖くなるから、そういう時は電気つける。で、ドラえもんの漫画を読む、で、無理やり「ワハハ」と笑って心を紛らわせるんだ、って言うんですよ。本当にそうだ、怖いほどの神秘だと思うんですよ。私もそう思います。

 

聖書ははっきりと語っているんですよ。神様はいらっしゃると。あのですね、永遠の存在が存在したという事は、認めざるを得ないと思うんですね。私たちが今ここにこうしているわけですから。じゃあ、最初からあった、その、永遠の存在とは何なのか、っていうと、神様信じない人は、物質と偶然だ、って言うんですよ。でも、そうじゃない、って聖書は言うんです。聖書は、永遠の、人格を持った存在、神様としか表現できない、無限の存在、永遠の存在、その方が、宇宙と、私たちをお造りになった、そう聖書にははっきりと書いてあるんです。科学をあんまり深く学ばない、ちょっとかじったような人に限ってですね、神様とか、神様がすべてを造った、というと馬鹿にしたりするんですけど、そうじゃないんですよ。深く深く学べば学ぶほど、たとえ神様を信じない人であっても、「私は神様を信じないけれども、そう信じる人の気持ちは分かる。」と言いますよ。イギリスに、アントニー・フルーっていう、無神論の親玉みたいな哲学者が居てですね、オックスフォード大学やアバディーン大学で教授をしていた人です。キリスト教なんてうそっぱちだ、神なんて絶対にいない、っていうようなテーマの本を書きまくってきた人です。しかし、彼はこういう事を深く研究した結果、「私は、自分の信じたい事を信じるのではなく、証拠が示すところに従わなければならない」と言ってですね。神様を信じたんですよ。彼はこう言っています。

 

「生物学者たちによるDNAの研究により、生命を引き起こすために必要な信じ難い程の複雑な配列が解明されており、そこには何らかの知的存在の関与が必須なのである。」

「最初に生み出された生命体が、進化論に基づいたものであるという捉え方は、今や極めて困難なこととなった。」

「私は命の無い物質から生物が進化し、極端に複雑な生命体に発達したことは不可能であると確信させられた。」

そして、「私は今まで、確実に多くの人々に影響を与えてしまっているため、ぜひともその甚大な悪影響を修復したいと望んでいる。」

と言っているんですよ。

 

また、アメリカでは毎年、クリスチャンの科学者と、無神論の科学者が、神はいるかいないかについて、討論会をしているそうなんですが、最初は無神論に立っていた科学者が、有神論に転向するということは、珍しくないことだそうです。ハッブル宇宙望遠鏡で有名なハッブルの一番弟子であり、もう天文学の大御所みたいな方で、超新星の研究で有名なアラン・サンテージという方も、その一人だそうです。

 

また、iPS細胞でノーベル賞を取った山中伸弥教授は、生命の細胞について、「こんな凄いものは、神様にしか造れない」と言っています。

 

そのような例は枚挙にいとまがないんですが、とにかく、この世界を創った神様はいらっしゃる、という考えは決して荒唐無稽な考えではないんですよ。その事は、この世界についてじっくり深く考えてみればわかるはずだ、ということがですね、聖書には書いてあるんです。ぜひこの事を心に深く留めていただきたいと思うんです。「神様はいらっしゃる。その方は創り主だ。世界をお創りになったのも、私たちをお創りになったのも、この神様だ。」っていうことを、聖書がはっきりと語っていることを、ぜひ心に留めてほしいんですね。もし、もう少し深く突っ込んでこういうことをお知りになりたかったら、本も紹介しますし、私より詳しい方もいますので、ぜひですね、メールでも、電話でもなんでもください。この時代にも沢山いるんです、今まで無神論に立って、神様を攻撃してきたけど、いや、神様を信じざるを得ない、と意見を変えて周りをびっくりさせた一流の科学者は沢山います。そのことを是非、心にとめて、神様はいらっしゃる、この世界の創り主はいらっしゃる、聖書はそう語っているんだという事を、まず心に留めて欲しいんです。それが、第一点目なんです。創造者なる神様のことをですね、ぜひ心に留めて、考えてください。

 

それでは、第二点目に、考えてみてほしいことがあります。皆さんにちょっと、聞いてみたいんですけど、皆さんは、裁判を受けて、有罪判決を受けたことがありますか。日本国の法律のもとで。ある人は手を挙げてくれませんか?

ああ、私だけですか(笑)私は、実は、あるんです。日本国の法律の下で、検察官に訴えられて、有罪判決を受けたことが私はあるんです。嘘じゃないです。冗談でもないです。誇張もないです。何かっていうと、三年位前に、車で旭川に行くときに、気持ちよく運転していたんです。60キロ制限の道を、90キロで。これ実はアウトなんですよ(笑)。急に警察官が飛び出してきてですね、切符を切られたんですが、30キロオーバーまではですね、これは罰金じゃないんです。刑事罰じゃないんです。あくまで違反金なんです。違反金もまあ、確か1~2万円くらいですかね。でも30キロオーバーするとですね、もうこれ、立派な罪人なんですよ。罰金を払わなきゃいけないんですよ。違反金じゃなくて、罰金です。立派な刑事罰なんです。ただ、裁判もしないで刑事罰というわけにはいかないんで、まず、裁判を受けに行かなきゃいけないんです。だから私、行きました、裁判所に。札幌の大通公園の近くの、簡易裁判所に行きました。もちろんですね、いちいち、ドラマの裁判みたいに、法廷に裁判長がいて、弁護人がついて、証人に質問をしてとか、そんなことはしませんよ。人数もたくさんいるんですから。順番に呼び出されて、状況聞かれて、事実関係確認して、ハンコつかれて、あっという間に終わります。それでもですね、れっきとした裁判なんです。それでですね、簡易裁判、略式裁判であってもですね、「判決、被告を、罰金六万円の刑に処す」って、はっきり書いて、裁判所のハンコがちゃんと押してありました。それでですね、ちゃんと書いてあるんですよ。日本国の記録にはですね、私の名前と共に、前科一犯、道路交通法違反、ってちゃんと書いてあるんですよ。大げさな、と思うかもしれないですけれど、事実そうなんですよ。れっきとした罪なんですよ。私は正式に、日本国の裁判で裁かれて、告訴されて、有罪判決を受けた、れっきとした罪人なんですよ。まあ、みんな親切でしたけどね。裁判所の皆さんは(笑)

それでですね、私が何を言いたいかといいますとね。このことにちなんだ、皆さんへのメッセージが聖書に書いてあるんです。聖書には、「他人事じゃないぞ、このことは」って書いてあるんです。何かっていうとですね、聖書にははっきりと書いてあるんです。「すべての人は、死んだあと、神様の前に出て、裁きを受ける」って、はっきりと書いてあるんです。ええと、「これがキリスト教ですよ」って、人前で話をする人の中には、このことをはっきりと語らない人が結構いるんですけど、私は、神学校を出て牧師になるとき、誓ったんですよ。「クリスチャンでない人に対して、キリスト教の事を話すとき、絶対にこのことを話さずに済ませたりはしない」と、心に誓ったんで、話さずにはいられないんですけど、「すべての人は、死んだ後、神様の前に出て、裁きを受ける」んです。すべての人がです。いつか死んだ後、すべての人は神様の前に立って、イエス・キリストの前に立って、全ての記録が開かれる、って書いてあります。すべてのことを神様はご存じで、口に出した事、心に思った事、したこと、しなかったこと、全部書いてあって、神様の絶対的な基準によって、裁かれる、って書いてあるんですよ。そしてですね、天国と地獄というものはあるんだ。神様がこの世界を造った、なのに、死んだら終わりか、いや、そうじゃない。永遠の天国、永遠の地獄というものがあるんだ。そして、すべての人は、天国か地獄、どちらかで永遠に過ごすんだ、っていうことがですね、聖書にはっきり書いてあるんですよ。私も、できればこんな厳しい事は言いたくないんですけれども、聖書にはっきりと書いてある事を言わないわけにはいかないんですよ。どうかですね、現実の問題としてですね、自分のこととしてですね、受け止めて、考えてみてほしいんですね。私もですね、どこからしら現実に受け止めきっていないところがあったんです、もちろんクリスチャンですから、私はいつか神様の前に出るんだな、裁きを受けるんだな、っていう風にですね、もちろん信じていましたよ。でもですね、実際に裁判所に行って裁判を受けてみてですね、簡易裁判で、被告席には立たなかったですけど、でも書類上のこととはいえ裁判を受けて、有罪判決を受けてみて、ビビりましたよね。ああ、普段は意識していなかったけれど、日本国の国家権力というものがあって、俺はその下で生きていて、俺はその前に引き出されて、事実関係を確かめられて、日本国の法の基準に照らし合わせて、有罪とされて、罰を受けたんだ、って考えたらですね、厳粛な気持ちになりましたよ。それでですね、聖書に書いてある神様の裁きっていう事も、さらに厳粛に受け止めるようになりました。

 

皆さんどうでしょう。神様の前に立ってですね、裁きを受けるんです。すべての人がです。あなたがです。皆さん、どうでしょうか。その時にですね、「俺はまあ、大丈夫だろう」って、思っている人はいるでしょうか。「うーん、まあ、俺、どっちかって言えば、天国なんじゃない?」「まあ、ぎりぎり、まあ、そんなね、もちろん、私も聖人っていうわけじゃないけど、まあ、あの人に比べたら、私は、まあ大丈夫でしょ」って、思う人が多いと思うんですよ。正直、この世界では。だって、まあ、大体、何々さんが死にました、っていうと、天国でまた会いましょうとか、当たり前のように皆、言うじゃないですか。ええ、最近だと、中曽根元首相が亡くなった時に、読売新聞の渡辺会長がやって来て、天国でまた会える日を楽しみにしていますとか、祝辞を読んだじゃないですか。まあ、そう思っていると思うんですよね、皆さん、大体。

 

でもですね、聖書はそうは言っていないんですよ。今日、最初にお読みした、新約聖書のローマ人への手紙第3章っていうところは、すごく大事な個所なんですよ。「律法」っていう言葉をまずちょっと説明したいんですけれども、これは、神様のおきてのことなんですよ。「十戒」と呼ばれる、シナイ山でモーセさんを通して与えられた神様の十のご命令って、皆さんもご存じだと思います。十戒は、非常にコンパクトに要約された、憲法みたいなものなんですけど、それだけじゃないんですね。聖書には、神様がどれ程きよいお方か、神様がどれほど、正しいこととそうでない事を、厳しく、正しく判断されるお方か、っていうその基準、きまりがたくさん書いてあるんですよ。それに照らして自分を反省してみると、こうだ、って書いてあるんですよ。

 

律法を行うことによっては、神様の戒めを守ろうと努力することによっては、誰一人神様の前に義しいと認められない。皆有罪だ、って書いてあるんですよ、要するに。無罪判決を受けられる人は一人もいない、って書いてあるんです。新約聖書ローマ人への手紙3章20節にはこうあります。

 

律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

 

これはすなわち、神様のおきてに直面する時、私たちのうちに生じるのは、安心感や自己義認ではなく、かえって、罪の意識が生じるんだ、そう書いてあるんです。だから神様は確かに私たちに、正しい決まり、正しいおきてを与えて下さったんですけども、それを守ることによって、「よし、おまえは合格」「おまえは天国」「おまえはいいだろう」って、認められる人は一人もいない、って言うんです。すべての人は失格者、すべての人は罪人だ、って言うんです。それがですね、聖書のメッセージなんですよ。大事な大事なメッセージなんですよ。一人もいないんです。自分の正しさで、自分の行いで、自分の功績で、神様の前に立てる人は、一人も、いないんです。

 

それでは、聖書って何なんですか。それだけだとしたら絶望の書なんですよ。しかし、「しかし」って書いてあるんです。その後の21節には。

 

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 

律法とは別の道を神様は開いて下さったんだ、しかもこれは、律法と矛盾するものじゃないんだ、そう書いてあるんです。実は律法が教えているのはこの道なんだ、律法が言っているのは、自分の正しさでは駄目だぞ、この道を行きなさい、と別の道を示しているんだ、ということです。その道とはどういう道でしょうか。

 

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 

って、書いてあるんですね。決して難しい事は言っていないんですけど、ちょっと分かりにくい表現かもしれませんので、ちょっと、たとえ話をしたいと思うんですね。

 

ある所にですね、一つの国がありました。その国には、王様がいました。王様っていうのは、国を正しく治めることが仕事なわけです。でもその国には、悪がはびこっていて、王様は非常に手を焼いていたんです。何とかして、正しく治めなければならないのに、国民は悪いことばっかりしている。だから王様は考えました。「よしわかった、それでは、法律を決めよう。これから、盗みをした者は、その者の目をえぐる事とする。」王様は、そういう法律を決めたんです。

さて、そうしたらですね、次の日に、大臣がやって来てですね、こう言いました。「王様、王様、捕まえました。強盗をした奴を捕まえました。現行犯で、絶対に間違いはありません。本人も自白しています。」

王様は言いました。「よし、じゃあ、私自身が、国民みなの前で、その者の目をえぐってやろう。」と言って、その罪人を連れてこさせ、国民たちの前で、その罪人と向き合いました。そうしたら、何と、びっくり、その強盗犯っていうのはですね、愛する王子だったんですよ。

 

さて、皆さんが王様だったら、どうしますか? どうしますか?

目をえぐりますか? そんなこと絶対したくないですよね。愛する息子なんですよ。誰が息子の目をえぐりたいですか?

でもですね、どうします、じゃあ。「ゆるしてやれよ。反省してるんだから。」

って言ったら、どうなります?

国民は、「なんだ、なんだ、盗みをしたって、ゆるされるのかよ。王子だったら。何だ、じゃあ俺たちだって、盗みをするよ。」って事になるんじゃないですか。

 

「正しいこと」っていうのは、ゆるがないんです。

でも、愛があるんです。助けたいんです。でも、正しさ、っていうものは、あるんです。

神様も同じなんですよ。神様の正しさ、っていうものはあるんです。神様っていうお方はですね。決して、「いいよ、いいよ。何でも赦してやるよ。」っていう、決してそういうお方じゃありません。正しい裁き主なんです。神様の正しさっていうものは、ゆるがないんです。でもですね、神様は同時に、罪人である私たちの事を深く愛しておられる。決して罪に定めたくはないんです。地獄に追いやりたくなんか、ないんです。ジレンマがあるんですよ。どうしたらいいでしょうか。その王様は。

 

王様はこう言ったんです。「ゆるしてやれ。」そして王子をゆるしたんです。刑罰はどうなったのかと言うと、「ただし、これによって、ゆるしてやれ」と言って、王様は、自分の目をえぐったんです。自分の目をえぐった。そして、全国民にその目を見せて、言ったんです。「いいか、盗みをした報いはこれだ。罪を犯した者は必ず罰せられる。これがそのしるしだ。」って言って、えぐった自分の目を全国民に見せたんです。そして、「その代わりに、この王子はゆるしてやれ」と言って、王様は、愛する王子を、ゆるしてやったんです。そして、同時に、罪を罰したんです。ただ野放しにして、無罪放免にしたんじゃないんです。刑罰も執行されたんです。自分の目をえぐることによって。

 

聖書に書いてある事は、そういう事なんです。それは何かと言うと、イエスキリストは、十字架であなたのために死んだ、って、クリスチャンでない人でもですね、一回や二回は聞いたことがあるんじゃないかと思うんですよ。一体どういうことか?確かに、二千年前に、イエスキリストっていう人が十字架で死んだのかもしれないけど、それが私と何の関係があるんだ? って思うかも知れません。聖書が言っているのはこういう事なんです。これはちょっと難しい話なんですけど、イエスキリストは、神なんです、実は。イエスキリストは、子なる神なんです。父なる神もいらっしゃる。子なる神もいらっしゃる。それだけじゃなくてですね、クリスチャンになった人には、その人の内には、聖霊なる神が住んでくださる。そのように聖書には書いてあるんですね。ああ、じゃあ、三人の神様がいらっしゃるんですね、っていうと、そうじゃないんです。いや、一人の神様だ、と聖書に書いてあるんです。ああ、じゃあ、神様はお一人なんですね、っていうと、そうです、でも、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神がいらっしゃるんですよ、というですね、三位一体、って聞いたことがあるかもしれません。この事についてですね、はっきり言って、人間は理解しつくすことはできませんし、それはこうなんです、なんて私が説明する事は到底できませんから、何も言いませんけど、とりあえずその事を知ってください。

 

そして、子なる神であるイエス様は、二千年前に人となって産まれてくださいました。神でありながら、人となって下さったんです。単に神が人間の肉体をとって、人間の姿をとって現れて下さった、っていう事ではないんです。神でありながら、同時に、完全に人間になって下さったんです。そして、一つも罪を犯されなかった、罪の無い方である、イエスキリストが、十字架で死なれたのは、なぜでしょうか。イエスキリストはですね、十字架で死ぬ時に、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」って、叫ばれた、って聖書に書いてあるんですよ。それを見てですね、「何だ、イエスキリストは、やっぱり、父なる神に騙されたんじゃないか、神に最後は裏切られたんじゃないか」みたいな事を言う人がいるんですが、そうじゃないんです。イエスキリストは、私たちに代わって、神様に見捨てられて下さったんです。私たちの犯した全ての罪の刑罰を、それこそ神に打たれ、神に見放され、神に捨てられなければならない、その刑罰を、身代わりに、イエスキリストが、あの十字架で、受けて下さったんです。そして、死んでくださったんです。それで終わりではなく、罪と死に勝利したしるしとして、三日目によみがえって下さったんです。そして今は、天におられ、信じる私たちのために、いつも父なる神にとりなして下さっている。祈って下さっている、と聖書に書かれているんです。

 

聖書の言葉に戻りますが、「信仰によって」と書かれています。これはどういう意味でしょうか。私はですね、小さい時から教会に行っていたんですけれども、このことが分かっていなかったんですよ。イエスキリストが何のために十字架にかかったのかっていうことがですね、高校生の時まで、分かっていなかったんです。きっとこういうことなんだろうな、イエス様は、「わたしは、こんなにがんばってるぞ。十字架にかけられても、相手を赦すぐらい、私は人を愛してるぞ。お前たちも私を見習ってがんばれ。」みたいなですね、きっとそういう意味なんだろうなと、思っていたんですよ。でもそうじゃないんですよ。私が先ほどお話ししたようにですね、私の罪の、あなたの罪の、刑罰をすべて、イエスキリストが受けて下さったんですよ。ですから、もし、あなたが、「神の子が私の罪のために死んでよみがえって下さった事を信じます。今まで私は確かに、神を認めず、神を信じず、多くの罪を犯してきました。私は罪人です。しかし、あのイエスキリストが、罪のない方が、身代わりに私の罪の刑罰を全て受けて下さり、死んでよみがえって下さった事を信じます」と、信じ告白するのならば、それだけで、それだけで、その人の全ての罪は、赦されるんです。その人は、神の子供とされ、そして、死んだあとは、「えー、神様の裁きの前に立つんでしょ、天国に行けるのか、地獄に行くのか、分からない、怖い怖い」ではないんです。必ず、無罪判決をいただける。そう、聖書のあらゆる箇所にはっきりと書いてあるんです。もはや信じる者は神様の子供なんです。一切の罪は処罰されているんです。「えー、でも信じた後もまた罪を犯すかも知れません。」いや、その罪も赦されているんです。信じるその人の存在ごと、丸ごと完全に赦されているんです。これがですね、聖書の語る一番大切なメッセージなんです。福音って言うんです。良い知らせ、グッドニュースの事です。

 

聖書っていうのはですね、まあ、あれしなさい、これしなさい、あなたもがんばりなさい、そうしないと、神様はあなたを地獄に落とすぞ、みたいなですね、それが聖書でしょ、って私は思っていたんですよ。神様の裁きはもちろんあります。地獄ももちろんあります。信じない者は裁かれると、はっきり書いてあります。しかし、聖書の中心的なメッセージは、まさにこの、キリストによる罪のゆるし、グッドニュースなんです。イエスキリストを信じるだけで、あなたは神の子供とされる。罪ゆるされる。救われる。永遠のいのちが与えられる。というのは、そういう事なんですよ。

 

じゃあ、イエスキリストを信じた後は、好き勝手に生きるんですか? いや、そうではありません。先ほど申し上げました、イエスキリストを信じた者の内には、聖霊なる神が住んでくださる。その人の心は新しくされる。もちろん、一瞬にして完璧な人になるとかですね、何の欠点も無い人になるとかですね、罪をもう二度と犯さなくなるとかいうことでは、もちろんないです。しかし、いつも、「神を信じたい」「神に信頼したい」「神を愛したい」そして、「人をも愛したい」という思いが、実際に与えられるんですよ。新しい人にされるんですよ。まあ私もですね、もちろん、クリスチャンになってからも、多くの罪を犯しました。多くの傲慢な事を言いました。酷い事もしました。

 

しかしですね、確かに言える事は、自分の力によってでは、到底、20年30年とクリスチャンを続ける事はできなかっただろう、っていうことです。もう罪ばっかり犯しましたし、本当に酷い事も沢山しました。俺もう駄目だな、っていう日も何日もありました。でもですね、確かに言えるのは、神様は本当にいらっしゃって、聖霊なる神様は本当に私の内に住んでくださって、その度にですね、勇気づけて下さるんですよ。助けて下さるんですよ。慰めて下さるんですよ。ゆるして下さるんですよ。だからですね、もし神様の力がなかったら、これがもし、ただの人間の思想だったら、嘘偽りだったら、とっくにやめてましたよ私。ただ人間が頭で考えだした、人間の宗教だったら、ぜったい私やめてました。本当にですね、俺はもうだめだ、と、涙を流さざるを得ないような日なんて何日もありましたよ。いや、こんなに自分っていうのは、悪い人間だったか、こんなひどい事を出来る人間だったか、思い知らされるような日は何日もありましたが、その度にですね、神様が慰めて下さるんですよ。励まして下さるんですよ。立ちあがらせて下さるんですよ。

 

そしてですね、聖書に書いてある、あらゆる慰めの約束があります。励ましの約束があります。それはですね、神様の子供とされたあなたの物なんですよ。例えばですね、「神様は耐えられない試練には決して会わせない」っていうことをですね、結構テレビタレントとかエッセイストとかが最近言うんですよ。「神様は耐えられない試練には会わせないと言いますから~」なんて言っているのを聞くんですけれど、あれはですね、聖書の言葉なんですよ。そしてですね、さらに言うとですね、これはですね、イエスキリストを信じて、神様の子供とされた人だけに、当てはまる約束なんですよ。「神様は耐えられない試練は与えない」なんて言ってもですね、世の中見れば、酷い事なんて沢山起こっているじゃないですか。耐えられないで自殺する人とか、沢山いるじゃないですか。それじゃあ、これは無意味な気休めの言葉でしょうか。違うんですよ。これはですね、神様を信じ、罪ゆるされて、神様の子供とされた人に、神様が与えて下さった、約束なんですよ。そして神様を信じた者として、私は証言することが出来ます。この約束は、本当です。神様は、おっしゃっているんです。わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない。どんな時もあなたを見捨てない。耐えられない試練には会わせない。全ての道で私はあなたを導く。わたしの許しが無ければ、どんな小さなことも、あなたの上には起こらない。わたしはすべてのことをあなたのために働かせて益とする。神様は神様の子供のために、これらの約束を与えて下さっているんですよ。それはですね、自分のために都合のいい事が次々と起こるとか、何でも自分の思い通りになる、願いどおりになる、などという意味ではもちろんないですよ。そうじゃないです。辛い事は沢山ありました。嫌な事、苦しい事、沢山ありました。でも全ては、神様のご支配のうちにあった事であって、私のために働いて益となったんです。こんな私が、傲慢な私が、神様と共に歩む時に、神様が自分の罪を分からせて下さって、少しずつですけれど、謙虚な者にされていったんです。少しずつですけど、神様のご支配と、神様が与えて下さる御計画、カリキュラムの下で、成長していくことが出来るんですよ。そしてですね、根本的なところでですね、いつも喜びがあるんですよ。神様は私の味方だ。神様は私のお父様だ。私には天国での永遠のいのちが与えられている。世の中がどんなに揺れ動こうともです。もちろん、クリスチャンだってコロナになるかもしれません。クリスチャンでも、コロナで死んだ人はもちろんいます。しかし、どんな時でも、どんな事があっても、すべては神様のご支配の内であって、神様が私のために益として下さる、この約束は本当だ、っていうことをですね、証言することが私は出来るんですよ。

 

そしてですね、最後にもうちょっと、もう一つ別の事をお話ししたいと思うんですけれども、この世界の行く末についても、聖書は、はっきりと、預言という形で、書いているんですよ。ノストラダムスの大予言っていうのがあって、1999年に、なんか、恐怖の大王が落ちてくる、1999年に世界は終わる、みたいなですね、漫画とか、本とかも沢山出ていましたよね。それが終わったら、今度は2012年だったかな、マヤの予言っていうのが出てきて、いや、実は2012年だった、とか言ってですね、その2012年にも結局、何も起こらないでですね、何なんだ、っていう風に思うんですけれど、でも聖書には、この世の終わりの事も、書いてあるんですよ。いつか、イエスキリストが再びこの地上に来られると。それはですね、オウムの浅原彰晃とか、幸福の科学の大川隆法とか、韓国の統一協会の文鮮明とか、ああいう、自分はキリストだと自称する、偽キリストのことじゃないですよ、そうではなく、誰にでもキリストだと分かる形で、雲に乗って、天から降りてこられる。それはもう、全世界の人が、同時に一目瞭然で認めることができる、超自然的な出来事です。いつかこの人間の歴史は終わりを告げる。そして神が支配される、新しい天と地が始まるんだ、と預言がされているんです。それだけじゃなくてですね。世界の歴史がどういう風になっていくか、っていう事がですね、イスラエル民族、ユダヤ民族の事を中心にですね、色々な事が書いてあるんです。個人の事だけじゃないんです。この世界の歴史についてもですね、神様はご計画をお持ちで、神様のご計画に従って、導いて下さっているんです。

 

いかがでしょうか。まあですね、私も友達と会った時に、機会があったら聖書や神様の話をすることもあるんですけど、まああまり喜んで聞いてくれない人たちもいます。しかしですね、そんな人も、じゃあ、人生喜んでですね、幸せだ、意義ある人生だ、嬉しい、って言って生きているかっていうとですね、やっぱり、そうじゃない、って言うんですね。まあ人間なんて死んだら終わりなんだし、とか、まあ人生なんて死ぬまでの暇つぶしなんだし、まあ、出来の悪いゲームみたいなものだし、ってやっぱり言いますよ。でも、確かに、その通りです。もし神様がいないのならば、もし、私たちを造って下さり、私たちを救って下さり、私たちを、そして世界を導く方がいらっしゃらないのならば、まあそりゃそうですよね。私たちは偶然、原子が集まって、偶然こうなっただけでですね、別に目的は無いんです。いつかバラバラになって、いつか無にかえるだけです。確かに、人生に意味はありません。神様が、いないのならば。

 

 

しかし、聖書は、語っているんです。神様は、いらっしゃる。あなたを造った方が、いらっしゃる。その方は、正しい方である。正義の方である。裁きをなさる方である。しかし、ただ裁きをなさるだけの方ではない。愛の方である。あなたを救うために、あなたのすべての罪を赦すために、あなたを御自分の子とし、永遠のいのちを与えるために、子なる神、イエスキリストを遣わし、十字架で、殺して下さった。それは、信じるあなたをゆるすためだ。信じるあなたを神の子供とするためだ。この世界の歴史に対しても神様はご計画をもっておられ、そして、いつか、神が支配される、何の罪も、何の汚れも、何の悪意も、何の痛みも無い、神の治める、新しい天と地が実現する時が来るのだ、そのことが、この聖書には、はっきりと書かれているんです。

 

いかがでしょうか。まあ、ちょっと、急ぎ足でですね、ざっと、ですけれども、語らせていただきましたけれども、これが聖書のメッセージの、骨組みなんですね。一番大事な部分なんですね。どうかですね、まあ、この中には、もう会えない方もいらっしゃるかもしれません。でもですね、別に私の顔は忘れてもですね(笑)、このことはどうか忘れないでいて欲しいんですね。もちろん、今、神様を、イエスキリストの救いを、信じてくれれば嬉しいですけども、何が何でも今すぐ信じろ、この場でクリスチャンになれとまでは言いません。でも、どうか忘れないでほしいんです、ああ、聖書って、そういう事を言っているのか。確かに、俺たちが生きているって、どういう事なんだろう、偶然なんだろうか。神はいるんだろうか。死後の裁きがあるって本当だろうか。イエスキリストって、どういう存在だろうか。聖書は答えています。どうか私が今話したことを心に留めてですね、それをもとに、聖書を読んでみて欲しいんです。もちろん、私に色々と質問してくださってもかまいませんし、まあ教会って言ってもちょっと、統一協会とか、ものみの党とか、エホバの証人とか、モルモン教とか、キリスト教を自称しながらもおかしな事を教えている、偽キリスト教もありますので、気をつけて、選んで欲しいですけれども、でも、ぜひですね、この中には東京に帰る方もいらっしゃいますけど、教会に行ってみて欲しいんですね。そして何か質問があったら、私に聞いてくださっても結構です。

 

これがですね、本当に、私が生涯をかけて、人生をかけて伝えたい、このことを伝えるためならですね、他の全てが犠牲になっても悔いは無い、っていうくらいですね、無限の価値がある、聖書の中心的なメッセージ、福音、っていうメッセージなんですよ。どうか、心に留めて、思い巡らしてみて欲しいんです。

 

そしてですね、人間の力で、他の人に神様を信じさせる、っていう事は実はできないんです。人が神様を信じることができるのは、実は神様の働きだ、って聖書に書いてあるんです。ですから私は祈り願っています。神様が働いてくださって、ここにいらっしゃる、まだ信じていない方々に、本当の悔い改めを、神への本当の立ち返りを、本当の信仰を、与えてくださってですね、あなたも、神の子供とされ、共に、神の国を、永遠のいのちを、受け継ぐ者にされる、そのことを本当に願ってやみません。今日は、古い友人が遠くから、教会の礼拝を訪ねてきてくださって、このことを語ることが許された、そういう機会が与えられたという事を心から感謝しております。ありがとうございます。

 

一言、お祈りいたします。

天のお父様、福音について、語らせていただきました。神様の御手の中に、愛する方々をおゆだねいたします。どうか、お導きください。そして、どうか、このメッセージを聞いた、まだ信じておられない方々の心の中で、このイエスキリストの福音が、根を張り、花を咲かせ、実を結ぶことができるように、どうか、神様のわざが、その方々の上になされますように、心から願い、イエスキリスト様の御名によって、お祈りいたします。アーメン。

 

 

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