札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「バプテスマのヨハネよりも偉大な者」 マタイによる福音書 第11章7‐11節

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荒野の洗礼者聖ヨハネ – Titian Vecellio

11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。

 11:8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。

 11:9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。

 11:10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。

 11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

 

 バプテスマのヨハネについての主イエスのお言葉から、私たちクリスチャンのあり方を学んでいこう。まず、バプテスマのヨハネは、「風にそよぐ葦」のような存在ではなかった。葦とは川岸に生える、細長いイネ科の植物であるが、どんなわずかな風にもなびく、弱く揺らぎやすいものである。バプテスマのヨハネの生き方はそのようなものとは正反対であった。彼の生き方は神から離れて自己中心的な生き方をしている世と妥協し、適当に合わせてうまくこの世を渡って行くようなものではなかった。自分の罪を心から認め、悔い改めて神に立ち返らなければ、必ず神の裁きのもとに滅びなければならないと世に語る、これがヨハネの姿であった。また、彼は「柔らかい着物を着た人」でもなかった。「柔らかい着物」とは、この世の安楽や富や名誉の象徴である。ヨハネは自らそのような事柄に心ひかれることなく、ただひたすら神の御心を行うことを追い求めた人物であった。主イエス様を信じ神の子とされた私たちクリスチャンもまた、神を神と認めないこの世の流れに流される者ではない。クリスチャンとは、いつの世も変わりなく、死んでよみがえったイエスを主として、この世の権力にも、人間の知恵にもよらず、ただ、今も生きておられる全能の神に従って歩む者である。

 

 次に、バプテスマのヨハネに対する評価から、神の目から見たとき、何が最も偉大なことであり喜ばれることであるかを知ることが出来る。人間的な基準から言えば、バプテスマのヨハネよりも偉大な人物は旧約聖書にいくらでも登場したように思えるが、主イエスは、「女から生まれた者で、バプテスマのヨハネよりも偉大なものは出なかった」とおっしゃった。これは、私たち人間の目から見て華々しい業をなし、偉大な功績を打ち立てることではなく、自分の罪を認め、神からの救い主にひれ伏し従うことこそ、人間にとって最も大切なことであり、神の目に偉大なことであることを示している。私たちの業がどれだけ大きなものであったか、人に知られるものであったかは、その結果に過ぎず、神の目から見たとき、二次的な事柄でしかない。

 

 さらに、「神の国で最も小さなものであっても、彼より偉大である」と言われている。バプテスマのヨハネはキリスト以前の者、旧約最後の者であったが、新しい契約のもとに主イエスを救い主と信じる私たちは、自分の価値においてはどんなに小さな者であったとしても、「女から生まれた者」以上の立場が与えられている。すなわち、私たちは「神によって新しく生まれた者(ヨハネ1章)」「聖霊によって神をアバ、父と呼ぶ者(ローマ8章)」なのである。それは自らの価値によるのではなく、主イエスの十字架を通して与えられた、神の無償の賜物である。

 

 私たちは主の前に何を求めているか。「風にそよぐ葦」として上手に世渡りをし、「やわらかい着物を着た者」としてきらびやかな生き方をすることだろうか。否、私たちはどんな小さな者であっても、主イエス様の恵みにより、聖霊によって、主なる神を「わが父」と呼ぶことが出来るこの幸いを、さらに深く求めていこうではないか。

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