札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨「真にいやされるために」 列王記第二 第五章1‐14節

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5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、ツァラアトをわずらっていた。

  5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、

 5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」

 5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。

 5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。

 5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトから彼をいやしてくださいますように。」

 5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

 5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。

 5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」

 5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。

  5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。

 5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」

 5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 

 シリヤの将軍ナアマンは、数多くの著しい功績をあげた偉大な将軍であり、知らぬものの無い偉大な英雄であった。しかし彼は、恐ろしい皮膚病に冒され、人知れず悩み苦しんでいた。ヘブライ語ではツァラアトと呼ばれるこの皮膚病は、旧約聖書において罪の象徴として描写されている。罪は、身分の高い者も低いものも、富や知識を持つ者も持たない者も等しく蝕み、その人生を、さらには永遠の運命をも破滅させるものである。

 さらには、私たち人間は罪の力とその結果から解放されるすべを知らない。国中の名医が全力を尽くしても、ナアマンの病をいやすことは出来なかった。同じく、人間がどれほど科学技術や学問や知識を発達させ、進歩させても、この私たちの存在を蝕む罪の力から自らを解放することはできなかったことを、私たちは歴史の中に、また自分たちの日々の生活の中にはっきりと見ることが出来るのである。

 それでは罪から解放される道はどこにも存在しないのだろうか。否。それは確かに存在すると神ははっきりと語っている。それは自らの罪を認め、そして自分の力では自分自身を救うことができないことをはっきりと認め、私たちの創造主なる唯一真の神の前にひれ伏し、すがり、信頼して従う道、すなわち信仰の道である。この道をナアマンに指し示したのはイスラエルからシリアに連れて来られた召使の少女であった。このことが示すように、この道は自らを高くしようとする生まれながらの人間の傾向とは相反するものである。神は敢えてこの世の身分の低いもの、見下されている者を選ばれ、生まれながらの人間には愚かに聞こえる、十字架の福音の言葉を信じることを通して、人間を救うことを定められたと、コリント第1章に書かれている通りである。

 ナアマンもまた、そのような自分を低くする道に始めは反発し、背を向けようとした。しかしついには身を低くして預言者エリシャの言葉を受け入れ、従ったとき、彼はツァラアトから解放され、そして神の愛と力を知り、真の神を信じ礼拝する者へと変えられたのである。

 私たちはどうだろうか。私たちもまた、日々の歩みの中で、私たちの人生を蝕み、暗いものとしている原因、すなわち私たちの罪を、具体的に示されることがあるだろう。その時には私たちのなすべきことはただ、その罪を認め、主に告白して、主の御心に聞き従う道へと立ち戻ることなのである。

 

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)」

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