札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

礼拝メッセージ要旨 「自分の道と十字架の道」 マタイによる福音書 第16章20-28節

f:id:sapporochristseisanchurch:20211208001107j:plain

 16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

 16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

 16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

 16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

 16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

 

 弟子たちが主イエスに、ピリポ・カイザリヤの町で、「あなたこそ神の子キリストです。」と正しい信仰告白をした直後、主イエスは弟子たちに、「救い主はエルサレムで捕らえられ、嘲られ、鞭打たれ、十字架で死ななければならない。」と、救いの奥義、メシアの秘密を明かされた。しかし、ペテロを始めとする弟子たちにとっては、神の子、救い主とは、ユダヤの国に対するローマ帝国の支配に象徴される、社会的、政治的な救いを与えてくれる方にすぎなかった。全人類の罪を負って十字架で死んでよみがえり、私たちを神の子となし、永遠の命を与える救い主という考えは、この時の弟子たちにはまだ理解できないものであった。だからこそペテロは、「そのようなことが起こるはずはありません。」と主イエスをいさめ始めたのである。

しかし、主イエスは「下がれ、サタン。」と、そのようなペテロを真正面から叱責された。私たちの願いがどれほど善意にあふれた、「神のため」を思ったもののように見えても、その背後に、自分の考えを神の御心の上に置き、自分の願いのために神を思い通りに動かし、利用しようとする思いが潜んでいることは無いだろうか。そのような思いがある時には、主イエスはそれを真正面から叱責される。このときのペテロがそうであった。

私たちクリスチャンは神の御心の下に自分を置き、神の主権を認めて、主の後ろに下がり、主の後ろからついて行く者である。すなわち、自分に死に、十字架を負って主イエスについて行く者である。その時にこそ、神の最善の御計画が私たちに実現し、全ての必要は満たされ、神の豊かな命に生きる者とされるのである。

主のはっきりとした御心を示されつつも、それを受け入れることが出来ず、「そんなことがあってはならない。」と、自分の計画、自分の願いを押し通そうとする思いが今、私たちの内にはないだろうか。あくまでその道を進み続けても、そこには、真の命、真の喜びはない。命の道は、主イエスと共に十字架を負い、主の御心に服し、従っていく道である。今、主イエスと共にこの道を歩んでいく願いと力を、今、主に祈り求めようではないか。

PVアクセスランキング にほんブログ村