札幌キリスト聖餐教会のブログ

 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ーイエス・キリスト

聖書講解メッセージ 「神を愛する者」 ローマ人への手紙 第8章 28-30節

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8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 

 

今回は、神のこの約束が自分のためのものであるかを、私たち一人一人が、吟味し、はっきりさせたいと思います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」との、この素晴らしい約束は、全ての人のためのものでなく、「神を愛する人々」のためのものであると、はっきり書かれています。ここで使徒パウロは「神を愛する人々」という言葉の代わりに、「神を信じる人々」「キリストを信じる人々」「神の子供とされた人々」などと書いても良かったことでしょう。しかし、聖霊は、ここでパウロが、救われたクリスチャンのことを「神を愛する人々」と表現するように導かれました。それは、神を信じるとは、知識だけ、感情だけ、意志だけの出来事では無く、ましてや単に洗礼を受けるとか何らかの団体に所属するとかいう事でもなく、人の全てによる、全人格的な応答であることを示すために他なりません。キリストを信じ、救われて神の子供とされたクリスチャンは、知、情、意、行いの全てをもって、神を愛する者とされています。それこそが、私たちが救われて神の子供とされているかどうか、そしてこの約束が間違いなく自分のためのものであると言えるかどうかの、試金石なのです。

 

まず、「感じること」の次元で、私たちが神を愛しているかどうかを、吟味しましょう。私たちの感情は、神に対する愛の副産物として生じるもので、決して、それ自体が神への愛なのでもなければ、神をどれだけ愛しているかのバロメーターなのでもありません。どれほど神を愛している人であっても、常に変わらず、その愛を感情として感じているわけではなく、神の事を考えても、心はあまり反応せず、砂を噛むように味気なく感じるような時期もしばしばあることでしょう。しかしながら、天地を創造された父なる神の聖さと全能、私たちを救うために死んでよみがえられた主キリストの御業とそのご人格、私たちの内に住まわれる助け主であり慰め主なる聖霊、この三位一体の永遠の聖なる神について思いめぐらしても、喜び、感謝、平安、畏敬、賛美、憧れ、そのような感情を少しも感じず、感じた事も無い、というのであれば、その人が本当に神を信じ、救われて神の子供とされ、神を愛する者とされているかどうかは疑わしいと言えるでしょう。聖書の真理を本当に信じて受け入れ、それを聖霊が私たちの内に啓示して下さる時に、私たちの魂の反応として、こういった感情が起こらないという事はあり得ないからです。

 

次に、私たちは、「知ること」において、神を愛しているでしょうか。すなわち、聖書に啓示された神の言葉、神についての知識を尊び、それを価値あるものと見なして、それを正しく理解し、心に蓄えようとしているでしょうか。聖書にあるように、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求め(Ⅰペテロ2:2)」ているでしょうか。

 

もちろん、「知識は人を高ぶらせ(Ⅰコリント8:1)」とあるように、人はこの世の知識を蓄え、それを誇るのと同じ姿勢で、神の御言葉を蓄え、それを誇ろうとする事があり得ます。ある種の人々にとっては、その落とし穴と誘惑は小さい物ではありません。知識それ自体は、神を愛している証拠とはならず、聖書の知識が多く正確であればあるほど、より深く神を愛しているというわけではありません。しかしながら、人が何かを愛するなら、その対象をよりより多く、より深く、より正しく知ろうとするはずです。人が何を尊び、愛しているかは、その人が何に時間と労力を費やし、何を求め、何を知ろうとしているかに表われます。確かに、この世の知識を求める事も、生きるに当たっては必要ですが、私たちはそれに勝って、主をより多く、より深く、より正しく知る知識を求めようとしているでしょうか。

「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

(ホセア6:3)」この御言葉が、私たちの心からの願いとなっているでしょうか。

 

最後に、私たちの「意志」について吟味してみましょう。主イエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです(ヨハネ14:15)」と仰いました。これは極めて重要な点であり、「神を愛する者」であるかどうかが外面に表れる決定的な点は、「神の戒めを守るかどうか」なのです。これは、「神の戒めを常に完全に守っているかどうか」という意味ではあり得ません。そうであったら、「神を愛する者」と言える人は、誰一人としていなくなってしまうでしょう。また、「私たちは、神の戒めを守っている時は「神を愛する者」となり、守っていない時は「神を愛さない者」となる」という意味でもありません。そうであれば、私たちの救いは結局のところ私たちの行い次第という事になり、救いの確信などというものはなく、天国行きを保証された者など存在しない、という事になるでしょう。

 

聖書が語っているのは常に内面であり、本質です。「ある人が外面的に、たまたま何をしたか」という事が問題なのではなく、「その人の内面、根底、核心、本質が、どのようであるか」が根本的な問題であり、行いとはその人の本質が外側に現れたものだからです。主イエスご自身が、「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。(マタイ7:18)」「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(マタイ12:35)」とお語りになった通りです。

 

ですから、意志と言っても、私たちは自分の意志の力で神の戒めを守ろうとすることによって、「神を愛する者」と認めて頂こうとするのでもなく、「神を愛する者」へと自分を造り変えようとするのでも、ありません。全ての人は、生まれながらに罪人、即ち「悪い木」であり、神の戒めを本当に守ることなど、誰一人として出来ません。生まれながらの人が、神の戒めを守ることを喜びとする者、すなわち「神を愛する者」となることは、自分の力や自分の意志では、誰一人として出来ないのです。それが出来るのは神お一人だけです。自分の罪を確信し、主イエスキリストの十字架の御業を信じた者に、神が聖霊を注がれることによって、その人は新しく生まれ、神を愛すること、神の戒めを守ることを喜んで意志する者へと造り変えられるのです。

 

今日の聖書個所に戻りますと、「神を愛する人」とはどのような人であると書かれているでしょうか。「神の御計画に従って召された人」です。さらにその人は、「神があらかじめ知っておられる人」であり、「神が御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた人」であると説明されています。つまり、もしある人が、神にひきつけられ、神にあこがれを感じ、神を求め、神に近づき、神に従い、神に喜ばれ、神に似た者となりたいと願っているのであれば、それは人間のわざではなく、神がその人を予め選び、造り変えようと、あらかじめ定めて下さっていたからである、と聖書は語っているのです。

 

私たちは、もう一度自己吟味をしてみましょう。あなたは、聖書を神の言葉と信じでいるでしょうか。神が全宇宙と、その中の生命と、私たち人間を、創造して下さったことを信じているでしょうか。私たちは神に背き、神から離れ去った罪人であり、ただ神のひとり子の救いの御業だけが、私たちの罪を赦し、私たちの心を造り変え、神の子供として下さる唯一の道だと信じているでしょうか。

 

そうであれば、それは素晴らしい事ですが、それだけであれば、「悪霊どもも、そう信じて、身震いしている(ヤコブ2:19)」ことです。さらに進んで、あなたは、自分が罪人であることを悟り、主イエスの十字架の死と復活を、他ならぬあなた自身の救いのための御業として信じているでしょうか。信じたことにより、あなたの全ての罪が赦され、神の子供とされ、永遠の命が与えられたことを喜んでいるでしょうか。主イエスのご人格は他のどんな人間とも異なる、神のひとり子に相応しいものであることを感じ取っているでしょうか。罪と戦い、汚れを厭い、悪を憎んでいるしょうか。神を認めようとしないこの世の不敬虔を悲しんでいるでしょうか。神にひきつけられ、神にあこがれを感じ、神を求め、神に近づき、神に従い、神に喜ばれ、神に似た者となりたいと願っているでしょうか。これは、いつもそのような感情を感じているか、とか、いつも完全にそのように生きることが出来ているか、という意味ではありません。そうではなく、時に脇道にそれる事があったとしても、これらのことこそ、あなたの心の最も深いところにある、あなたの本当の想い、本当の願いであると言えるでしょうか。

 

もしそう言えるのであれば、あなたは「神を愛する者」です。そして、あなたが「神を愛する者」となったのは、決して人間の業ではなく、神が予めあなたを選び、あなたをそのような者に造り変えるようにあらかじめ定められた結果なのです。あなたが神を選び、神を愛したから、神がそれに応えてあなたを愛して下さったのではありません。神がまずあなたを選び、あなたを愛して下さったからこそ、神を愛する愛をあなたに与えて下さったのです。あなたが神を愛しているなら、そのことは、神があなたを選び、あなたを愛し、あなたを救いに定めて下さっていたしるしに他なりません。神がまずそうして下さったのでなければ、誰一人として、神を愛することはあり得ないからです。

 

あなたは、神があなたの人生を中断させ、あなたの人生に侵入して来られたことを意識しているでしょうか。神があなたに目を留められ、あなたの人生に干渉し、あなたに自分の罪と無力さを確信させ、主イエスキリストが開いて下さった救いの道を確信させ、あなたをご自分の元へと引き寄せ、あなたを捕らえて下さったことを意識しているでしょうか。今もあなたに関心を持ち続け、あなたを導き、あなたを引き寄せ、あなたの生活に干渉し続けておられるのを感じ続けているでしょうか。あなたが自分で自分にこれらのことを行ったのではありません。あなたはそのような事を願わなかったにもかかわらず、あなたに対してこれらのことがなされたのです。

 

これらの事を自分に起こった事実として知る人は、「神が全てのことを働かせて益として下さる」との神の約束を、現実離れした絵空事と見なすことはありません。時として自分の期待通りに物事が進まず、ひどく傷つけられ、痛めつけられ、苦しめられるような事が起こったとしても、うろたえたり、絶望したり、神を憎み呪ったりする事はありません。むしろ、そのような時にこそ、聖書の御言葉を自分自身の告白として、こう言うでしょう。

 

「神の恵みによって、私は今の私になりました。(Ⅰコリント15:10)」

「それは、自分自身から出た事ではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)」

「卑しめられたのはわたしのためによい事でした(詩編119:71・新共同訳)。」

「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのままに、なさってください。(マタイ26:39)」

「(私たちの)内に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむこと(はしません)。」(Ⅰペテロ4:12)

「信仰が試されると忍耐が生じ・・・その忍耐を完全に働かせるなら、(わたしは)何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:3-4)」

「(私の)あった試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、(わたしを)耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」

「(わたしの内に)良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)」

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

 

「私たちは知っている」のです。自分の計画によらず、神の御計画によって救われた私たちは、この御言葉の真理の幾ばくかを、既に自分の人生を通して経験しています。その中でつちかわれた神への信頼を、苦難の時も、逆境の時も、どんな時も、さらに働かせようではありませんか。それこそが神を愛する者、すなわち自分の思いを神とするのではなく、神を神とする者に相応しい、信仰の態度だからです。

 

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